竜造寺氏(読み)りゅうぞうじうじ

改訂新版 世界大百科事典 「竜造寺氏」の意味・わかりやすい解説

竜造寺氏 (りゅうぞうじうじ)

肥前国佐嘉郡竜造寺(現,佐賀県佐賀市)を本拠とする中世武家。藤原秀郷流というが,諸説あって不明。秀(季)家が1186年(文治2)に竜造寺村の地頭職に補任されて竜造寺を称する。弘安の役には家益が活躍し筑前筑後にも勢力を拡大。南北朝期には家政が北朝方として活躍。室町時代には少弐氏に属する。戦国期には少弐氏に反旗をあげたため家兼が筑後に追われて,危機となるが,鍋島氏らに迎えられて佐賀水ヶ江城に入る。1546年(天文15)家兼の曾孫円月が還俗して隆信と称し,少弐氏を攻略して肥前の一大武将となる。天正期には筑後,肥後,筑前,豊前にも勢威を拡張し,五州太守として島津大友氏と並ぶ戦国大名となる。しかし84年(天正12)隆信が肥前島原に敗死したことにより勢力が弱化し,子政家は病弱であったため90年に国事を鍋島氏に委任して隠居。その子藤八郎が関ヶ原の戦で西軍に属する行動をとったために,役後の大名は鍋島氏となり,竜造寺氏の地位は完全に喪失した。その子高房が1607年(慶長12)9月死去したことをもって絶家。
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百科事典マイペディア 「竜造寺氏」の意味・わかりやすい解説

竜造寺氏【りゅうぞうじうじ】

戦国大名。藤原秀郷(ひでさと)の一流と伝えるが不明。初代秀家が肥前(ひぜん)国竜造寺地頭職(しき)に補任(ぶにん)され竜造寺氏と称した。室町時代は少弐(しょうに)氏に属したが,戦国時代隆信が出て筑後(ちくご)・肥前まで進出し,島津・大友両氏と並ぶ勢力となった。1584年島津氏に敗れ,隆信は敗死。子の政家は病弱のため家臣鍋島氏が国事を代行,1607年竜造寺氏は絶家。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「竜造寺氏」の解説

竜造寺氏
りゅうぞうじし

中世肥前国の豪族。本姓藤原氏。肥前国在庁官人高木氏の一流。鎌倉時代,高木季家(すえいえ)が佐嘉郡小津東郷内竜造寺村(現,佐賀市)地頭に任じられて,以後竜造寺氏を称し,御家人として活躍。南北朝期は足利尊氏に従い,その後は代々少弐(しょうに)氏に属して活躍,有力な国人領主に成長した。戦国期,隆信の代に,少弐時尚(ときひさ)を破り,肥前国を平定。大友・島津両氏と並んで九州を三分する勢いを示したが,隆信敗死後は急速に衰えた。その後は重臣鍋島(なべしま)氏に代わられ断絶。

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旺文社日本史事典 三訂版 「竜造寺氏」の解説

竜造寺氏
りゅうぞうじし

戦国・安土桃山時代の武将の家
藤原秀郷の子孫ともいう。鎌倉初期,肥前国竜造寺荘の地頭となる。足利尊氏に属して功を立て,のち少弐氏に属す。隆信のとき勢力ふるい,少弐時尚を破り肥前一国を領有し,島津・大友氏と鼎立したが,1584年島津家久に敗れ戦死した。その後勢力は衰え,家臣鍋島氏にその地位を奪われた。

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世界大百科事典(旧版)内の竜造寺氏の言及

【肥前国】より

…だが南北朝動乱の終結により,この一揆契諾は解消している。
[少弐氏から竜造寺氏へ]
 室町時代は大内氏の支援を受けた九州探題渋川氏と少弐氏の抗争の場となった。1497年(明応6)大内氏との戦に敗れた少弐氏は大宰府を追い出され,竜造寺氏の援助で肥前国を流浪しながら命運を保っていたが,1559年(永禄2)正月少弐冬尚が勢福寺城で敗死し,滅亡した。…

※「竜造寺氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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