畠山義統(読み)はたけやま・よしむね

朝日日本歴史人物事典 「畠山義統」の解説

畠山義統

没年:明応6.8.20(1497.9.16)
生年:生年不詳
室町時代武将。父は義有。能登守護,左衛門佐。父義有が永享11(1439),12年ごろ大和の陣中で死去したため幼くして跡を継ぎ,祖父義忠の後見を受けて享徳1(1452)年に能登守護となる。義忠隠居ののち室町幕府相伴衆となり,寛正5(1464)年の糺河原勧進猿楽にも列席。畠山宗家の争いでは幕命により義就に味方し,応仁の乱でも義就のバック,山名氏が率いる西軍に属した。文明9(1477)年能登に下国し,能登府中に長くあって領国支配に専念。長享2(1488)年,加賀の富樫政親を救援すべく出兵,明応2(1493)年の細川政元のクーデタで越中に逃れた前将軍足利義材をも支援した。祖父義忠に似て和歌,連歌に優れ,歌会を催し,清巌正徹やその門下正広とも親交があった。

(石田晴男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山義統」の解説

畠山義統 はたけやま-よしむね

?-1497 室町時代の武将。
畠山義忠の孫。父義有の死により祖父の跡をつぎ,能登(のと)(石川県)の守護となる。将軍足利義政の相伴衆もつとめる。応仁(おうにん)の乱では畠山義就(よしなり)に味方し,山名持豊方についた。文明9年(1477)能登府中にかえって統治を強化し,文芸活動を保護した。明応6年8月20日死去。

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世界大百科事典(旧版)内の畠山義統の言及

【能登国】より

…したがって室町期の能登畠山氏の領国経営は,在京する守護満慶,義忠,義統(よしむね)に代わって,守護代遊佐(ゆさ)氏が鹿島郡八田(やた)郷府中の守護所にあって実務にあたった。応仁・文明の乱(1467‐77)後,守護畠山義統は能登に下国し,動揺する領国の再建に腐心して,戦国大名化への基礎を固めた。戦国前期の北陸地域の内乱的状況のなかで,能登畠山氏は一族間の内訌や一向一揆の反乱などを克服し,やがて戦国中期の畠山義総(よしふさ)の時代に,領国の繁栄を招来するが,その間,守護所(府中)に近接する七尾山に堅固な山岳城(七尾城)を構築し,山下に戦国城下町七尾の形成もはかられた。…

※「畠山義統」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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