コペルニクス(読み)こぺるにくす(英語表記)Nicolaus Copernicus

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コペルニクス」の意味・わかりやすい解説

コペルニクス
こぺるにくす
Nicolaus Copernicus
(1473―1543)

ポーランドの聖職者、天文学者地動説の創設者。ポーランド名Mikołaj Kopernik。トルニの銅卸商の末子に生まれ、10歳で父を失い、兄姉とともに母方の伯父で聖職者のワッツェンローデLucas Waczenrode(1447―1512)に養われた。1491年、聖職を志してクラクフ大学に入学、学芸学科で哲学教授ブルゼウスキーAlbert Brudzewski(1445―1497)の数学、天文学の講義を聴き、宇宙観について啓発され、開眼した。そこでは、当時のプトレマイオス天動説理論と『アルフォンス星表』にまとめられた観測結果との間のずれが指摘された。当時、ユリウス暦を採用していた教会祭礼暦は実際の日付より約10日の遅れがあった。また天動説に基づいて計算された天文航法用の天体位置暦は精密を期しえなかった。前者は宗教上の権威に、後者は航海者の生命にかかわる問題であり、この社会的問題がコペルニクスの天文学への関心を強めさせたに違いない。

 1496年、伯父の援助でルネサンスの本拠地、北イタリアへの遊学が実現し、コペルニクスはボローニャ大学に編入した。ここはヨーロッパ最古の大学であり、伯父の出身校でもあった。ギリシア語の学習から始めて、ギリシア哲学、ギリシア天文学へと進んだ。天文学教授ノバラDomenico Maria Novara(1454―1504)は、黄道傾斜を観測してプトレマイオスの宇宙体系に訂正が必要なことをみいだした篤学の人であった。コペルニクスは彼に師事して、1497年にアルデバラン星の星食の観測を手伝った。この年、留学中のまま、母国の教団からワーミアの聖堂の評議員に任命され、さらに留学を引き続き認める許可も下りた。1500年にはローマ聖誕祭に兄とともに正式資格で参列し、約1年間滞在し、天文学の講演を行い、月食を観測した。

 1501年いったん帰国し、改めて留学延期の承認を得、ただちにイタリアに戻ってパドバ大学を訪ねた。ここで神学の研修に励んだのち、1503年フェッラーラ大学に転じて神学の学位を得た。ふたたびパドバ大学に戻り医学を学び、1506年にはその学位を受けるまでに上達した。

 この大学遍歴の間にコペルニクス宇宙体系、いわゆる地動説の構想を固めたに違いないのであるが、その直接の動機となったといわれる古代ギリシアのアリスタルコスの手記にどこの大学で接したかは明らかでない。

 およそ10年間のイタリア留学を終え、1506年ごろ帰国し、伯父の任地ハイスベルクに赴き、秘書兼侍医として管内監督に、出張旅行に同行するなどして仕えた。彼の評判を高めたのは医療の技であり、貧民への施療にも精魂を注ぎ人望を集めた。1512年、伯父の他界とともに、フロムボルクフラウエンブルク)の寺院に着任した。ここで昼間は聖職、医療、税務の任にあたり、夜間は寺院の望星台で、手製の測角器を専用して天体観測に励んだ。目ざすところは地動説の確認にあり、その技術は熟達の域には及ばず、観測精度は十分ではなかったが、天体位置の予測に関しては従来の天動説によるものよりは優れていることに自信をもった。1514年、教皇庁の改暦審議会に召請されたが辞退した。その理由として、太陽年の1年の長さが未解決であることなどをあげているが、その実は、地動説がカトリックの教義に照らし異端であることをひそかに配慮したためと思われる。地動説を確信しながらも、これを著述し公刊することは大きな勇気を必要とした。

 1516年、エルムランド教区会計監査役兼アレンシュタイン寺院評議員に補されて転任したが、1526年にふたたび元のフロムボルクに大管区長として帰任することができた。そして17年後にこの地で永眠したのであるが、その臨終の枕辺(まくらべ)に彼の終生の主著『天球の回転について』の第一刷が届いたという。

 地動説を執筆した期間は20~30年間に及んだらしい。そしてそれが完稿に近い1530年ごろ、『概要』をまとめた。この『概要』は理論的に書かれた太陽中心説の初めての概説書であり、小部数だけ自費出版され、活動的な天文学者・数学者・聖職者らに配布された。その一部は教皇クレメンス7世およびシェーンベルクNicolaus von Schönberg(1472―1537)僧正にも贈られ、僧正からは主著公刊の激励を受けた。

 コペルニクスが主著出版の決意を固めた直接の動機は、ドイツの若い数学者レティクスの熱意による。『概要』に述べられた新説に感銘したレティクスは、1539年にコペルニクスに弟子入りし、およそ1年間教えを受けた。帰国にあたりその公刊を懇願し、説得に成功して、ニュルンベルクのグーテンベルク活版所での印刷を約して原稿を預かった。ところが帰国してまもなくライプツィヒ大学教授に就任することとなって、あとの世話を友人の神学者オシアンダーAndreas Osiander(1498―1552)に依頼した。この世話人は後顧の憂いを避けるために独自の序文を付した。つまりこの著書を単なる便宜的計算書としたのである。もとより著者コペルニクスの本意ではなかったが、それかあらぬか直接の禁書扱いを免れることができた。

 以上のように天文学で偉大な業績をあげたコペルニクスは、政治・経済面でも敏腕を振るった。1519年末から1521年まで、オルスチン城がドイツ騎士団によって包囲された際、城内にとどまってこの城を守った。1528年には『貨幣論』を著し、ここでグレシャムに先だって、貨幣の劣悪化が物価騰貴の原因になることを指摘するなど、貨幣改革にも努めるなどした。

[島村福太郎]

『広瀬秀雄著『コペルニクス』(1965・牧書店)』『F・ホイル著、中島龍三訳『コペルニクス』(1974・法政大学出版局)』『矢島祐利訳『天体の回転について』(岩波文庫)』



コペルニクス(年譜)
こぺるにくすねんぷ

1473 2月19日ポーランドのトルニに生まれる
1483 父ニコラウス死去。以降、伯父ワッツェンローデの下で養育される
1491 クラクフ大学入学。天文学を学び始める(1495年卒業)
1496 教会法修得のためイタリアのボローニャ大学に留学
1497 3月9日ボローニャ大学教授ノバラに師事。アルデバランの掩蔽を観測し、プトレマイオスの月理論の誤りに気づく。10月20日フロムボルクのワーミアの聖堂の評議員に任命される
1497 このころ『アルマゲストの概説書』(ポイエルバハ、レギオモンタヌス共著)を入手し、天動説の再検討に進む
1500 ローマを訪問
1501 ポーランドにいったん帰国。ついでパドバ大学に留学。医学に興味をもつ
1503 フェラーラ大学から教会法の博士号を受ける
1507 このころ地動説に関する小冊子を書く。月の運動を除いて、太陽の歳差運動、惑星運動についてはまだ多くの課題を残していた。一方、ハイスベルクで伯父ワッツェンローデの秘書兼侍医として活動
1509 テオフィラクトス・シモカッテスの書簡集を翻訳
1512 3月29日伯父ワッツェンローデ死去。フロムボルクに転任
1513 惑星の系統的な観測を始める
1514 教皇庁より改暦に関して意見を求められるが、返答を差し控える
1516 ワーミアの一地方長官となる
1520 このころドイツ騎士団の攻撃強まる。政治経済面で敏腕を振るう(~1530年ごろまで)
1522 ウェルナーの『第八球面の運動について』を批判する。集中的に月観測を行う(~1524年まで)
1528 通貨に関する経済的研究『貨幣論』を出版
1539 若い学者レティクスが訪れる
1540 レティクス、コペルニクス学説の概要『ナラティオ・プリマ』を出版
1543 3月神学者オシアンダーにより、主著『天球の回転について』出版される。5月24日フロムボルクで死去

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コペルニクス」の意味・わかりやすい解説

コペルニクス
Copernicus, Nicolaus

[生]1473.2.19. トルン
[没]1543.5.24. フロンボルク
ポーランドの天文学者。クラクフ大学 (1491) ,イタリアのボローニャ大学 (97) ,さらにパドバ大学 (1501) に学び,当時のほとんどすべての学問を修め,教会法で博士の学位を取得 (03) 。 1497年以来フロンボルクの聖堂参事会員。帰国 (05) 後はその地でその生涯をおくった。イタリア滞在中,D.ノバラらに代表されるルネサンスの新プラトン主義思想の息吹きに触れ,古典学,天文学に関心をいだいた。ギリシア,ローマの古典を通じて,早くから,太陽中心説の着想を得ていたが,生涯をかけてその数学的精緻化に努力した。宗教上の懸念もあって,有名な地動説を述べた『天体の回転について』の全編が刊行されたのは,彼の死の直前の 1543年であった。伝統的な地球中心のプトレマイオス体系ではすでに当時の観測事実を証明するのでさえ多くの不自然な技巧を施さなければならない状態で,哲学的のみならず実用天文学上の観点からも根本的変革の必要に迫られていたといえよう。コペルニクスの地動説は,当時の理論的難点のいくつかを取除くことができたばかりでなく,天界は神聖かつ不変であり生成消滅する地上世界とは本質的に異なるという伝統的区別,また大地の不動性など,神学・哲学ばかりか常識の根底にまで浸み込んだ考え方に真向から反するものであった。しかし,コペルニクスの体系自体には宇宙の有限性,惑星天球および周転円など,保守的要素も多く残存していた。コペルニクスの天文体系から派生する多くの問題を解決していくことは,ケプラー,ガリレイ,さらにはニュートンらによって進められる科学革命の中心的課題であった。

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