相伴衆(読み)ショウバンシュウ

デジタル大辞泉 「相伴衆」の意味・読み・例文・類語

しょうばん‐しゅう〔シヤウバン‐〕【相伴衆】

室町時代宴席などに将軍相伴役として伺候した者。山名一色いっしき細川畠山赤松佐々木などの諸家から選ばれた。しょうばんしゅ。

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精選版 日本国語大辞典 「相伴衆」の意味・読み・例文・類語

しょうばん‐しゅう シャウバン‥【相伴衆】

〘名〙 (「しょうばんしゅ」とも) 宴席などで相伴にあずかる人々。特に、室町時代、将軍が殿中で宴を催し、また、諸将の宴に臨む時、相伴役としてその席に陪従する者。有力守護大名家から選ばれた。→御相伴衆
※羅葡日辞書(1595)「Apophoreta〈略〉フルマイノ スエニ xǒbanxuni(シャウバンシュニ) アタユル ヒキデモノ」

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改訂新版 世界大百科事典 「相伴衆」の意味・わかりやすい解説

相伴衆 (しょうばんしゅう)

室町幕府が定めた一つの身分。本来は将軍が他家を訪問し,あるいは殿中で饗宴が催されたとき,将軍に陪席する人々を指したが,高い家柄の者に限られたため,一定の身分として固定した。三職(さんしよく)(三管領)に次ぎ,御供衆の上に位置した。《花営三代記》の応永28年(1421)正月14日,足利義満が妻子とともに伊勢貞経亭を訪問した際,管領畠山満家が御相伴に召されたことが初見とされるが,この時期にはまだ御相伴衆という一定の職掌や身分は定められていない。その制度化の時点は必ずしも明確でないが,将軍義政の15世紀中期には,三職-御相伴衆-御供衆という身分序列も定まり,賀正の将軍対面の儀礼や書札礼上の待遇も定められた。《永享以来御番帳》には御相伴衆の記載があり,これを信じれば,将軍義教の永享初期には制度化されたものとみられる。おそらく御相伴衆も,御供衆,奉公衆などとともに,義教治政の初期に,義満以来の前例を参酌しながら幕府内の制度として整えられたのであろう。以後の事例をみると,これに任じられた者は,斯波,畠山,細川,一色,佐々木,赤松,山名,土岐,武田,富樫各氏など,しかるべき守護大名家の者に限られていた。そしてこの将軍に陪席するという名誉ある職掌は,幕府内において三職に次ぐ高い身分的地位を示すものとなったと考えられる。その意味では1561年(永禄4)に将軍義輝が,上洛してきた三好長慶・義興父子を御相伴衆に任じたことは重要であり,《永禄六年諸役人附》によると,朝倉義景大友宗麟,北条氏康,今川氏真らの戦国大名がこの職についている。饗宴での相伴という本来の職掌がまったく意味を失い,一定の身分的表示に変質しさったということができる。なお〈相伴衆〉の制度は,武士のみでなく,将軍に近侍した貴族や禅僧にも適用されたが,禅僧では1459年(長禄3)の《蔭涼軒日録》に,等持院等連,鹿苑院周鳳,崇寿院真圭,相国寺俊誉,等持寺棠蔭,蔭涼軒真蘂の名がみえる。
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