トルコ文学(読み)とるこぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トルコ文学」の意味・わかりやすい解説

トルコ文学
とるこぶんがく

トルコ文学は歴史的にみて三つの時期に大別することができる。

[永田雄三]

イスラム以前

まず、トルコ人のイスラム改宗以前、8~11世紀の文学遺産に突厥碑文(とっけつひぶん)がある。これは1889年オルホン河畔で発掘されたが、8世紀初頭のもので、現存する最古のトルコ文学遺跡である。このほか、エニセイ川上流や中央アジアなどで、突厥文字やウイグル文字による碑文や写本が発見されている。これらはハガン(可汗(カガン))一族や功臣の業績を刻んだもの、仏典や景教の教典、またマニ教典の翻訳であるが、トルコ語がかなり早くから発達していたことを示している。

[永田雄三]

イスラム以後

イスラム化したトルコ人の最初の文学作品は、カラ・ハン朝の侍従ユースフYūsuf Khā Hājibの『クタドクビリク(幸福を与える知識)』(1069)で、王や役人の心得、人生観、世界観が6000を超える詩句のなかに盛り込まれているが、そこにはイスラム化以前のトルコ人の伝統が流れている。続く、マフムード・カシュガリーの『トルコ・アラビア語辞典』(1071)は、トルコ語の語義をアラビア語で解説した辞典であるが、そこに引用された四行詩、諺(ことわざ)によって当時のトルコ人の生活が浮き彫りにされるばかりでなく、言語学、歴史学上の貴重な資料ともなっている。

 13世紀以後のトルコ文学はチャガタイ語アゼルバイジャン語、オスマン・トルコ語の三つの主要な方言に分かれて発展した。チャガタイ語は主として中央アジアのティームール朝、インドのムガル帝国で用いられ、『詩集』『文人列伝』の著者ネバーイーによってチャガタイ語文学が大成された。また、ムガル皇帝バーブルの『自伝(バーブル・ナーマ)』も優れた文学作品である。アゼルバイジャン語文学には、13、14世紀の北東部アナトリアにおけるオグズ人の生活、戦争を描いた英雄叙事詩『デデ・コルクトの書』があるが、16世紀に現れたフズーリーの『詩集』『ライラーとマジュヌーン』は後世のアゼルバイジャン語文学、オスマン語文学に多大な影響を与えた。アナトリアを基盤に大帝国を築いたオスマン朝のオスマン語文学は、セルジューク朝以来のペルシア文学の影響下に発達したが、13世紀から14世紀の神秘主義詩人ユヌス・エムレや、ルーミーの子スルタン・ワラドらは、むしろ素朴なトルコ語と伝統的スタイルを保持した。14世紀から15世紀初頭にかけては、『アレクサンダー大王伝』のアフメディーAhmedī(1334―1413)、ペルシア詩の影響を受けた『ヒュスレブとシーリーン』のシェイヒーŞeyhī(1375―1431)、預言者ムハンマド(マホメット)への賛歌『メブリード』のスレイマン・チェレビーSüleyman Çelebi(?―1422)らが、初期のオスマン語文学を担った。

 15世紀中葉から17世紀末までが、いわゆる古典時代で、この時期には、『キョルオウル伝説』『ナスレッティン・ホジャ物語』や伝説的吟遊詩人カラジャオウランKaracaolan(1606?―1689?)の詩集、あるいは「カラギョズ」(影絵芝居)など民衆的文学が生まれた反面、オスマン王家を中心とした宮廷文学が発達した。バーキーBakī(1526―1600)の『頌詩(しょうし)』、ナービーの『息子への忠告』、ヤフヤーYahyâ Bey(?―1582)の『ユスフとズュレイハー』などはアラビア語、ペルシア語をふんだんに盛り込み洗練された技巧を示した。他方、廷臣による歴史叙述が発展し、ネシュリーNeşri(?―1520)、ナイーマーNa‘îmâ(1625―1715)、ホジャ・サーデッティン・エフェンディHoca Sadeddin Efendi(1536―1599)らの年代記が著された。チューリップ時代(1718~1730)は古典の復興期にあたり、ネディムの華麗な詩が宮廷生活を彩った。

[永田雄三]

近代以降

オスマン帝国におけるタンズィマート(1839~1876年に行われた西欧化改革運動)以後、トルコは西欧化を志向した「近代化」改革期に入り、文学の面でも、西欧とくにフランスの影響が強くなり、翻訳も盛んに行われた。ズィヤ・パシャZiya Paşa(1825―1880)、シナースィナムク・ケマルらが西欧文学手法の導入による近代トルコ文学の先駆者であるが、ウシャクルギル、ギュルプナールHüseyin Rahmi Gürpnar(1864―1944)らの写実主義的小説がよく読まれた。20世紀に入ると、ナショナリズム思想の勃興(ぼっこう)とともに、伝統的トルコ文学への回帰がみられた。雑誌『若いペン』の主宰者ズィヤ・ギョカルプZiya Gökalp(1876―1924)は民衆文学の発掘とトルコ語の「純粋化」(アラビア語・ペルシア語語彙(ごい)の廃除)に力を注ぎ、これを受けたオメル・セイフェッティンギュンテキン、ハリデ・エディプ・アドゥバルらの大衆小説が生まれた。

 第一次世界大戦後、オスマン帝国が崩壊し、1923年トルコ共和国が生まれると、ケマル・アタチュルクの指導した「トルコ革命」によって急激な改革が行われ、また第二次世界大戦後、トルコ経済の資本主義化が進展するなど、約半世紀の間にトルコ社会は著しい変貌(へんぼう)を遂げた。

[永田雄三]

トルコ共和国の文学

新国家建設の理念は、イスラムにかわってトルコ民族主義に求められた。1928年にはこれまでのアラビア文字にかわって、ローマ字表記の新トルコ文字が採用されるなど、トルコは短期間の間に西洋的な近代国家に生まれ変わった。それとともに社会も大きな変貌を遂げたが、それは「近代化」された大都市とイスラム的伝統のなお残る農村部との間に大きな格差を生み出したため、文学者の関心もその方面に向けられた。

 フランス象徴詩の影響を受けたヤフヤー・ケマルのように、オスマン文学の伝統を保持する新古典派詩人もなお存在したが、この時代を特徴づけるのは、社会派の作家が文壇をにぎわしたことである。1922年にソ連に留学し、マヤコフスキーに傾倒した社会主義者、革命詩人ナズム・ヒクメト・ランの叙情的な自由詩はその筆頭である。貧困と抑圧にあえぐアナトリア(小アジア)農民の解放を訴え、世界平和を説いた彼は、何度か投獄されたあげくモスクワに亡命し、かの地に没した(1963)。だが、これを契機にトルコ文学史上初めてアナトリアが小説の舞台となった。アナトリアに教師として赴任した美貌の女性の苦悩を描いたギュンテキンの『ミソサザイ』(1922)が広く大衆的人気を博した。現代トルコ文学の祖といわれるヤクプ・カドリ・カラオスマンオウルYakup Kadri Karaosmanolu(1889―1974)は、イスラムに名を借りた迷信を弾劾した『ヌール・ババ』(1922)で話題をよんだ。彼はまた『よそ者』(1932)などで、都市と農村との意識や生活習慣の相違を好んで題材とした。こうした風潮のなかで、アナトリア農村の啓蒙(けいもう)を目的に設置された「村落教員養成所」出身の作家たちが、1950年代以後に輩出した。マフムト・マカルMahmut Makal(1930―2018)の『おらが村』(1950)を皮切りに、ファキル・バイクルトFakir Baykurt(1929―1999)、ターリプ・アパイドゥンTalip Apaydin(1926―2014)などが農村社会の抱える問題を訴えた。

 また、トルコ随一の綿花栽培地で大地主制の残存する南東アナトリア社会の矛盾を描いた作家たちが現れた。この系列にはオルハン・ケマルOrhan Kemal(1914―1970)、ケマル・ターヒルKemal Tahir(1910―1973)の名をあげることができるが、とりわけ、ヤシャル・ケマルの『やせっぽちのメメット』(1955)は、伝統的な民族叙事詩の手法を駆使した名作で、ノーベル文学賞の候補になった(同書は長編大河小説で、1987年に第4巻が刊行されている)。一方では、イスタンブールの市井の生活を軽妙に描いたサイト・ファーイクSait Faik Abasyank(1906―1954)や辛辣(しんらつ)な政治批判をユーモアに包んだ風刺作家アズィズ・ネスィンのように、都市文化の香りを伝える作家も存在する。その政治批判のため何度も発禁処分を受け、投獄もされた。同じ風刺作家で、『ハババム教室』の作者ルファット・ウルガズRfat Ilgaz(1911―1993)は、1960年代以降に活躍した。

 1960年代初めから顕著となった、西ドイツへの出稼ぎに赴いた人々を題材とした小説が登場する一方、アダレト・アーオールAdalet Aaolu(1929―2020)のような女性作家が激動する1970年代の社会を女性の視点から描いている。フュルーザンFuruzan(1932―2024)は、『無料寄宿舎』(1971)、『包囲』(1972)などで、ドイツでのトルコ人出稼ぎ労働者を題材とするなど、社会派的視点から作品を発表している。トムリス・ウヤルTomris Uyar(1941―2003)は1970年代以降活発に活動した女性作家で、『絹と銅』(1971)、『夏の夢、夢の冬』(1981)などがある。

 1980年代以降の注目される作家には、『白い城』(1985)、『黒い本』(1990)のオルハン・パムクOrhan Pamuk(1952― )などがいる。

 人類学や民俗学の発展とともに、アナトリア民衆の間に残る民話、歌謡(マーニー)、諺(ことわざ)、なぞなぞ、懸詞(かけことば)などの豊かな民衆文学の掘り起こしも進んでいる。総じて、現代のトルコ文学はアメリカ作家の影響が強く、短・中編の多いのが特徴である。

[永田雄三]

『N・ヒクメット著、中本信幸・服部伸六編・訳『ヒクメット詩集』(1969・飯塚書店)』『アフムト・マカル著、尾高晋己訳『トルコの村から――マフムト先生のルポ』(1981・社会思想社)』『竹内和夫・勝田茂編『トルコ民話選』(1981・大学書林)』『護雅夫訳『ナスレッディン・ホジャ物語――トルコの知恵ばなし』(1987・平凡社・東洋文庫)』『間野英二著『バーブル・ナーマの研究』1~3(1995、1996、1998・松香堂)』『保科真一著『トルコ近代文学の歩み』(2001・叢文社)』『Carole RathbunThe Village in the Turkish Novel and Short Story, 1920 to 1955 (1972, Mouton, The Hague & Paris)』

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改訂新版 世界大百科事典 「トルコ文学」の意味・わかりやすい解説

トルコ文学 (トルコぶんがく)

トルコ族は中央アジアから西アジアにわたる広大な地域に分布し,多くの国境によって分離されているが,チュルク語によって結ばれた一つのトルコ族世界が,過去においても,また現在においても存在している。そしてチュルク諸語による文学遺産の多くが,トルコ民族全体の共有財産となっている。また〈書かれた文学〉と〈口承された文学〉とが,つねに並行して存在してきたのも,トルコ文学の特徴の一つである。

 トルコ文学の変遷は大別して,(1)イスラム以前,(2)イスラム期,(3)近代,の3期に時代区分される。

古代トルコ族が,豊かな口承文学を有したことは,中国史書の記載などから推測されるが,トルコ族最古の文献資料は,突厥(とつくつ)文字による突厥碑文(オルホン碑文)である。8世紀前半の突厥の可汗と高官の紀功碑で,叙事詩的な文体を有し,対句,比喩,同義語反復の多用,豊富な動詞表現と教訓的性格など,後世のトルコ文学の特徴の多くがすでに認められる。

 突厥の後をうけたウイグル族は,9~13世紀にわたってウイグル文字による多数の文献資料(ウイグル文献)を残しており,現存するマニ教,仏教,ネストリウス派キリスト教の翻訳教典の断片などには,詩形,文体に突厥時代からの発展が見いだされる。ウイグル文字による文学伝統は13世紀ころまで東トルキスタンで継承されたが,中央アジア以西のトルコ族は,10世紀以降イスラム化が進み,アラビア文字の使用が始まる。

最初のトルコ系のイスラム王朝となったカラ・ハーン朝では,ユースフの教訓詩《クタドグ・ビリク》(1069・70)が,イスラム以前の伝統との混融を示し,マフムード・カシュガリーの《チュルク語語彙集》(1071)は,古代までさかのぼるトルコ諸部族の文学遺産(とくに4行連句の歌謡)を豊富に収録している。他方,ガズナ朝,セルジューク朝においては,ペルシア文学の影響が強く,トルコ文学伝統はただ口承文学のなかにのみ継承された。13世紀初頭に始まるモンゴル族の西進は,トルコ文学伝統の復活をもたらし,新たなトルコ文語としてチャガタイ語アゼルバイジャン語(アゼリー),オスマン語が発生して,近代にいたるまで併存していく。

ティムール朝(1370-1506)で用いられたチャガタイ語は,中央アジアからムガル帝国のインドまで広く普及し,詩人アリー・シール・ナバーイーによって完成された。散文においてもムガル帝国君主バーブル(1483-1530)の回想録《バーブル・ナーマ》,アブル・ガージー・バハードゥル・ハーンAbū'l Ghāzī Bahādur Khān(?-1663)の《トルコ族の系譜》が,チャガタイ文語の成熟度を示している。

アゼルバイジャン語はイラン北西部からアナトリア東部に住した東部トルクメン族の文語で,ネシミー(?-1420ころ),ハタイー(サファビー朝イスマーイール1世の筆名)の宗教詩に始まり,大詩人フズーリーによって,トルコ文学における地位を確立した。フズーリーの抒情詩集や物語詩《ライラとマジュヌーン》は,とりわけオスマン朝文学に大きな影響を与えた。また東部トルクメンの口承叙事詩《デデ・コルクトの書》が14~15世紀に文語化され,イスラム以前からの文学伝統の根強さを証明している。

アナトリアに移住した西部トルクメン族の方言は,オスマン帝国の文語として古典的完成に達した。

 その初期(14~15世紀),アナトリアにおけるトルコ文学のさきがけは,ユヌス・エムレ,スルタン・ベレド(?-1312),アーシュク・パシャĀshık Paşa(?-1332)らの神秘主義詩人たちで,彼らは素朴なアナトリア方言と伝統的なトルコ詩の韻律を用いて詩作した。オスマン朝の勃興とともに,宮廷詩人の活動が始まり,アフメディーAḥmedī(1334-1413)の《イスケンデル・ナーメ》は,最古のオスマン王朝史も含む長編叙事詩で,中央アジアまでも伝播した。コンスタンティノープルの征服(1453)以後,多くの王朝史が編纂されたが,アシュク・パシャ・ザーデ,ネシュリーNeşrī(?-1490)の年代記は,口語的要素の多い簡素な文体で書かれ,語り物の伝統をとどめている。

 中期(16~17世紀)には,アラビア・ペルシア語彙を多く含むオスマン文語が形成され,アゼルバイジャン語文学,チャガタイ語文学からの影響も受けて,オスマン朝古典文学が完成された。詩文学はアフメト・パシャAḥmed Paşa(?-1497)によって開発された古典的手法が,ネジャーティ(?-1497)によって確立され,ザーティ(?-1546),ルーヒー(1526-1600),バーキー,ヤフヤー(1552-1643)らによって開花した。教訓詩,物語詩,風刺詩など種々のジャンルを含むが,最も重要なのは抒情詩である。やや固定化した手法を打破するため,ネフィー(?-1635),ナイリー(?-1668)は,ムガル帝国のペルシア詩の影響を受けて新しい詩風を創出した。

 散文においては,宮廷史官によるオスマン朝史の編纂が始まり,前代の素朴な年代記とは対照的な荘重華麗な歴史叙述が見られた。イブン・ケマルIbn Kemal(?-1535),ホジャ・サーデッディン(1536-99)は,史実の記録よりも文章の彫琢に重点をおく典型的な王朝史家である。一方,ムスタファ・アーリー(?-1606),ペチェビー(?-1650),シラフダール(?-1723)は,より簡素な文体で同時代史を記録し,キャーティプ・チェレビーナイーマ・エフェンディー(ムスタファ・ナイーム)は,独特の歴史哲学を確立した。またエウリヤ・チェレビーの旅行記,ムスタファ・コチ・ベイMustafa Koç Bey(生没年不明)のスルタンへの建白書などは,虚飾のない実務的な文体が特徴的である。

 後期(18~19世紀前半)には,オスマン帝国の衰退にともない,文学活動も低調になり,ネディム,ガーリブ・デデGhālib Dede(1755-98)が,古典詩の最後を飾ったにとどまる。散文はますます華美な文飾を競うのみで,特筆すべき作家はない。

オスマン帝国においては,上流階級の専有する古典文学と別に,民衆の間の口承文学の発展が見られた。17世紀以降,アナトリアを中心に発生した民衆叙事詩《キョルオウル物語》は,民族楽器サーズに合わせて吟遊詩人が語る語り物である。《ナスレッディン・ホジャ物語》は,13~14世紀までさかのぼる寓話集で,トルコ民衆の知恵と抵抗精神の結晶である。また都市においては,カラギョズと呼ばれる影絵芝居が愛好されてきた。これらはオスマン朝文学とはほとんど無関係に,トルコ口語にもとづく文学伝統を形成していた。

19世紀後半以降,オスマン帝国に対する西欧の優位が決定的になり,〈近代化〉の開始とともに,文学においても大きな変革が開始された。

改革派知識人によって,西欧文学の諸形式(小説,評論,戯曲)が主としてフランス文学を通じて紹介され,ジャーナリズムの導入とともに宮廷中心の従来の文学環境を一変させた。シナーシーがその先駆者で,最初の民間新聞《世論の注釈》を発刊して新しい文体の創造に着手し,ナムク・ケマルはさらに広範囲な文学活動を通じてトルコ近代文学の基礎を築いた。ナムク・ケマルの戯曲《祖国あるいはシリストレ》は,トルコ文学の新しい場として劇場を前面に押し出したこと,文学が政治思想の伝達手段として用いられたことの2点で画期的であった。19世紀末には,雑誌《学問の富》に芸術至上主義をかかげる詩人・作家が結集し,ウシャクルギルは自由なトルコ語散文体を創出し,テウフィク・フィクレトはフランス象徴派の影響の下にトルコ近代詩の開拓者となった。こうした西欧派の文学運動に対して,詩人ヤフヤー・ケマルは,オスマン朝宮廷文学の伝統を継承しつつ新古典主義を標榜し,高度の芸術性に到達した。20世紀にはいると,トルコ民族主義の高揚の下にトルコ語改革運動が始まり,ジヤ・ギョカルプを指導者として,トルコ語口語と民衆文学への接近が意図された。その文学的成果は,オメル・セイフェッティン,カラオスマンオウルYakup Kadrī Karaosmanoğlu(1889-1974)の短編小説,女性作家として政治活動にも参加したハリデ・エディプの長編小説であり,彼らはオスマン帝国の末期からトルコ共和国への文学上の橋渡しをつとめた。

ケマル・アタチュルクによるラテン文字採用(1928)と言語改革は,トルコ文学の進路に決定的な方向を与え,多くの詩人・作家が真の国民文学をめざして活動している。詩人では自由詩を開拓したナズム・ヒクメトとオルハン・ベリ・カヌク(1914-50),独創的な詩風に近代の不安をただよわすファジル・ダアラルジャ(1912- )が傑出しており,作家には短編小説の名手サイト・ファイク・アバシヤヌク(1907-54),ナスレッディン・ホジャを思わせる風刺作家アジズ・ネシン(1915-95),農民文学の開拓者オルハン・ケマル(1914-70),同じく農村を舞台に民衆叙事詩の伝統を生かした《インジェ・メメット》その他の作品で,現代トルコ文学を代表するヤシャル・ケマルYaşar Kemal(1922- )がいる。現代トルコ文学に共通する特徴は,現実の政治・社会に対する強い関心と,作品を介しての思想表明であり,芸術至上的な傾向は目だたない。

旧ソ連邦のアジア地域には多数のトルコ系住民がおり,チュルク語諸方言の文学伝統を継承し発展させている。

 キルギス文学では,マナスという長大な民衆英雄叙事詩が,吟遊詩人によって口承されてきた。チンギズ・アイトマートフは,この豊かな口承文学の伝統を文体に取り入れながら,ソビエト社会における種々の社会問題をテーマとした小説を発表している。カザフ文学では,ロシア帝国時代から,カザフ知識人によってカザフ文語が形成され,ロシア文学の影響を受けた文学活動が続けられた。アバイ・クナンバーエフ(1845-1904)は,その理論的指導者で,ロシア文学の紹介と同時に,伝統的民衆詩の詩型を用いた抒情詩を書いた。革命後はジャビット・ムスレポフ(1902-85)が,ゴーリキーの影響を受けつつ,カザフスタンの社会変動をテーマとした小説と戯曲を発表している。

 かつてチャガタイ語文学の中心であったウズベキスタンでは,ハムザ・ニヤジ(1889-1929)によって,新たなウズベク語文学への道が開拓された。彼はウズベク語の教育に革命前から専念し,革命後はウズベク民衆文学の伝統を踏まえた詩・戯曲を書いて現代ウズベク文学の基礎をつくった。

 アゼルバイジャン文学では,アーホンドザーデが,アゼルバイジャン文学の近代化をほとんど独力でなしとげ,あらゆる文学ジャンルで作品を発表した。ロシアと西欧文学の影響を受けながら,民衆文学伝統に根ざした民族主義を主張し,イスラムの後進性を批判している。革命後はミルザ・イブラヒモフ(1911- )が小説・戯曲・評論の分野で活発な創作を続けている。また,ボルガ川中流域カザン市を中心とするタタール知識人たちは,ロシア帝国末期から帝国内のトルコ系住民に対して思想的指導者の立場にあった。シハブッディン・メルジャニ(1815-89)はその代表的人物で,その神学的・歴史的著述を通じてオスマン帝国の知識人にも影響を与えた。ガブドゥラ・トゥカイ(1886-1913)は,伝統的詩風を脱却した新しいタタール詩文学の創始者であり,ゴマル・バシロフ(1901- )は革命後のタタール文学の指導者として,ソビエト内戦をテーマとした小説を書き続けた。

 旧ソ連邦内のトルコ系諸民族は,いずれもロシア(キリル)文字を採用し,それぞれの方言による地方的文学を,国民文学の地位にまで高めようとしている。全トルコ族に共有される共通文語は失われたが,方言の差異を越えた相互交流はトルコ共和国をも含めて継続されており,国境を超越した広義のトルコ文学はいまも存在している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルコ文学」の意味・わかりやすい解説

トルコ文学
トルコぶんがく
Turkish literature

およそ 12世紀にわたって,トルコ族によってチュルク諸語で書かれた文学作品の総称。トルコ文学の歴史は,次の3期に大きく分けられる。 (1) イスラム教改宗以前の純粋にトルコ的な時期 (8~11世紀) 。 (2) イスラム文化の支配期。アラビア文学,ペルシア文学の影響下にあった (11~19世紀中期) 。 (3) 近・現代。ヨーロッパの思想,文学の影響が支配的となった時期で,スルタン,アブドゥル・メジト1世の即位 (1839) 以後をさす。イスラム教受容以前の最古の文学的遺産は,1889年に北モンゴル高原のオルホン川流域で発見されたオルホン碑文に見出される。ここに刻まれている文字は北モンゴル高原,シベリア,西トルキスタンで発見された碑文にもみられ,デンマークの言語学者 V.L.P.トムセンによって 93年に解読され,「トルコ=ルーン文字」と名づけられた。碑文には勇壮な力強い文章で,トルコ族の起源や古代の歴史が記されている。文体はきわめて洗練されており,トルコ語がかなり早くから発達していたことが推察される。
トルコ族は,イスラム教に改宗すると同時に,アラビア=ペルシアの韻律や文学的伝統を次第に受入れた。言語学的には,チャガタイ語,アゼルバイジャン語,オスマン・トルコ語 (アナトリア語) の3種類の言語が用いられるようになった。東部トルコ族の文語であるチャガタイ語は,主として中央アジア,キプチャク・ハン国,エジプト,ムガル帝国期のインド宮廷で用いられた。チャガタイ語には特定の政治的,文学的中心地がなかったので,各地方の口語の影響を受けた。アリー・シール・ネバーイーとムガル帝国の創始者バーブルは,チャガタイ語による代表的な著述家である。アゼルバイジャン語は,ペルシア西部,イラク,オスマン帝国による征服以前のアナトリア東部などに居住した東オグズ族の文語で,この言語による最初の作者としては,たぐいまれな美しさと信仰心に満ちた詩を書いたネスィミーがあげられる。また,サファビー朝の創始者イスマーイール1世は,アナトリアの宗教的民衆文学に永続的な影響を与えた。その詩は宗教的感動と政治的宣伝とが混然一体となったもので,イスラム教シーア派の教義が説かれている。フズーリーはオスマン帝国の古典期最大の詩人で,後世のすべてのアゼルバイジャン語とオスマン・トルコ語の詩人に影響を与えた。
オスマン・トルコ語は,13世紀以降のアナトリアのセルジューク朝およびオスマン帝国の言語で,トルコ文学史上最も実り多いものである。 14~15世紀の前古典期には,ペルシア古典文学の影響が圧倒的であったが,15世紀中期までにイスタンブールを中心にオスマン帝国の版図が確立すると,トルコ文学の黄金時代が始った。もはやペルシアの古典文学をそっくりそのまま模倣するのではなく,完全に消化吸収したため,トルコの詩人はそれぞれの個性的色彩をもった,まさに古典的な詩を発展させた。しかし非常に多くのペルシア語,アラビア語の語彙や構文を取入れたため,その純粋さをある程度失うことにもなり,結果としてトルコ文学は一部の知識階級のものに限定されることとなった。フズーリーとバーキーは古典期宮廷文学を代表する詩人である。また古典期には民間説話,宗教的な要素と叙事詩的な要素をあわせもつ物語,重厚で技巧的なスタイルで書かれた純文学など,多種多様の散文も発達し,特に年代記は古典期散文の頂点であった。 18世紀以降の古典期以後におけるすぐれた詩人としては,アフメット3世治下の「チューリップ時代」を多彩華麗な詩に歌ったネディムがあげられる。 18世紀後半には,古典派最後の大詩人ガーリプ・デデが独創的な神秘主義の物語詩『美と愛』を書いた。
19世紀に入ると,西洋にならった諸改革が進められ,文学にも影響を及ぼした。主としてフランスの影響のもとに小説,戯曲,随筆のようなヨーロッパの文学形式が取入れられ,その一方で,古典的な詩型や創作思想は次第に衰退していった。 20世紀にはナショナリズムと社会主義の影響を受け,ケマル・アタチュルクの諸改革以後,豊かで多様な文学が発展した。特に 1930年代以降,初めてトルコ固有の独創的文学が登場した。それ以前の時代の文学と異なり,イスタンブールの上・中流階級の生活や諸問題を描くにとどまらず,地方で暮す一般民衆についても関心が寄せられるようになったのである。 19世紀には,フランス文学の影響を受けた詩人のシナースィ,小説家のウシャクルギルらが活躍した。 20世紀の作家としては,ヒサル,タネルネスィンらが知られている。

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