室町後期の武将。室町幕府管領(かんれい)畠山持国(もちくに)の長男。初名義夏。持国には嫡出の実子がなかったので弟持富(もちとみ)を家督後継者にしようとし、またその子政長(まさなが)を養子に迎えた。ところが妾との間に生まれた義就に1450年(宝徳2)家督を譲ったため畠山氏は、持国・義就派と、政長を支持する有力家臣派とに分裂、領国河内(かわち)を中心にして国人(こくじん)領主を巻き込んで戦いを繰り返した。将軍足利義政(あしかがよしまさ)、細川勝元(ほそかわかつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))が政長を支持したため、政長は64年(寛正5)管領に就任し家督を継いだ。しかし、まもなく義就は勝元と対立した宗全の支持を取り付け、67年(応仁1)政長の解任に成功を収めると、勝元の支持を受ける政長との間に戦端が開かれ、応仁(おうにん)の乱へと発展していった。乱後も畠山両派の争いは続き、義就は河内大和(やまと)、南山城(やましろ)の国人を巻き込んで転戦している。延徳(えんとく)2年1月12日死去。
[川島茂裕]
『佐々木銀弥著『日本の歴史13 室町幕府』(1975・小学館)』▽『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』
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1437~90.12.12
「よしひろ」とも。室町中期~戦国期の武将。持国の子。初名義夏。伊予守・右衛門佐。持国はながく子がなく,弟持富を養嗣子としていたが,40歳で妾腹に生まれた義就が1448年(文安5)家督とされた。のち持富の子弥三郎を駆逐したが,60年(寛正元)弥三郎の弟政長が細川勝元らの支援で家督を認められると,河内国嶽山(だけやま)城にこもって幕府に抵抗。66年(文正元)山名宗全を頼ってゆるされ入京。翌年政長を討とうとして勃発した応仁・文明の乱では西軍の主力として活躍。77年(文明9)乱の終息で河内へ撤退し,同国の主要部を確保。83年,南山城に侵攻したが,山城国一揆の要求で撤兵。その後も幕府からゆるされず,河内・大和両国主要部の実力支配を続けながら病没。
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…これは管領の解任を意味するものであった。同日,政長と家督を争っていた畠山義就が幕府に出仕し,将軍に対面することが許されている。義就は将軍義政から処罰を受け,追討の綸旨まで出されていたのであるが,山名宗全の画策によって罪を許され,前年12月25日に上洛してきたばかりであった。…
※「畠山義就」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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