コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

畠山義就 はたけやまよしなり

7件 の用語解説(畠山義就の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

畠山義就
はたけやまよしなり

[生]? 山城
[没]延徳2(1490).12.12.
室町時代中期の武将。「よしひろ」とも読む。持国の子。初名,義夏。右衛門佐。家臣が家督の義就を排して政長を立てようとしたため,畠山氏は2流に分裂,細川,山名の両氏に助けられた政長側が優勢で,義就は京都を追われて河内,紀伊の各地に転戦。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

はたけやま‐よしなり【畠山義就】

[?~1490]室町中期の武将。畠山持国の子。持国の養子政長家督相続をめぐって対立し、応仁の乱の発端をつくった。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

畠山義就【はたけやまよしなり】

室町中期の武将。持国の子。畠山家の家督をめぐり従弟の畠山政長と対立,山名宗全の応援を得て激しく争い,応仁・文明の乱の発端となる。乱後,河内(かわち)主要部をほぼ平定。
→関連項目新撰長禄寛正記高屋城春木荘放生津山城国一揆

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

畠山義就 はたけやま-よしなり

1437-1491* 室町時代の武将。
永享9年生まれ。畠山持国の子。父の養子である叔父畠山持富の次男政長と家督をあらそい,畠山家は両派に分裂。将軍足利義政の仲裁で一時は和睦するが,のち対立が激化。山名持豊とくんで政長・細川勝元方とたたかい,応仁(おうにん)の乱を誘発。乱後も河内(かわち),大和を転戦,延徳2年12月12日陣中で病死。54歳。初名は義夏。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

はたけやまよしなり【畠山義就】

?‐1490(延徳2)
室町中期の武将。持国の子。畠山家の家督をめぐり,従兄弟の弥三郎とその弟政長と激烈な争奪戦を演じた。1454年(享徳3)いったん弥三郎に家督を奪われるが,将軍足利義政の庇護により奪回。その後家督は政長に移るが,67年(応仁1)山名持豊の支援で再度継承する。応仁・文明の乱では西軍に属し,77年(文明9)講和後もひとり帰参せず河内に下向し,河内,紀伊を支配した。【鳥居 和之】

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

はたけやまよしなり【畠山義就】

?~1490) 室町中期の武将。持国の子。持国の養子政長と家督を争う。一時、政長に追われて各地に逃れたが、のち山名宗全の支援を得て反撃、応仁の乱の発端をつくった。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

畠山義就
はたけやまよしなり
(?―1490)

室町後期の武将。室町幕府管領(かんれい)畠山持国(もちくに)の長男。初名義夏。持国には嫡出の実子がなかったので弟持富(もちとみ)を家督後継者にしようとし、またその子政長(まさなが)を養子に迎えた。ところが妾との間に生まれた義就に1450年(宝徳2)家督を譲ったため畠山氏は、持国・義就派と、政長を支持する有力家臣派とに分裂、領国河内(かわち)を中心にして国人(こくじん)領主を巻き込んで戦いを繰り返した。将軍足利義政(あしかがよしまさ)、細川勝元(ほそかわかつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))が政長を支持したため、政長は64年(寛正5)管領に就任し家督を継いだ。しかし、まもなく義就は勝元と対立した宗全の支持を取り付け、67年(応仁1)政長の解任に成功を収めると、勝元の支持を受ける政長との間に戦端が開かれ、応仁(おうにん)の乱へと発展していった。乱後も畠山両派の争いは続き、義就は河内大和(やまと)、南山城(やましろ)の国人を巻き込んで転戦している。延徳(えんとく)2年1月12日死去。[川島茂裕]
『佐々木銀弥著『日本の歴史13 室町幕府』(1975・小学館) ▽鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の畠山義就の言及

【応仁・文明の乱】より

…これは管領の解任を意味するものであった。同日,政長と家督を争っていた畠山義就が幕府に出仕し,将軍に対面することが許されている。義就は将軍義政から処罰を受け,追討の綸旨まで出されていたのであるが,山名宗全の画策によって罪を許され,前年12月25日に上洛してきたばかりであった。…

※「畠山義就」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

畠山義就の関連キーワード有馬元家宅間憲俊古市重胤畠山持国新撰長禄寛正記河野通之(1)畠山政国畠山満慶畠山義豊遊佐国助

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone