日本大百科全書(ニッポニカ) 「畢沅」の意味・わかりやすい解説
畢沅
ひつげん
(1730―1797)
中国、清(しん)朝中葉後期の学者、政治家。字(あざな)は蘅(じょうこう)、秋帆(しゅうはん)、号は霊巖(れいがん)山人。江蘇(こうそ)省鎮洋(ちんよう)県(太倉(たいそう))の人。若いとき経学を恵棟(けいとう)に、詩を沈徳潜(しんとくせん)に学ぶ。1760年(乾隆25)の進士。陝西按察使(せんせいあんさつし)、同巡撫(じゅんぶ)、河南巡撫、湖広総督などを歴任し、白蓮(びゃくれん)教徒の乱の鎮定にあたり、嘉慶(かけい)2年7月3日、辰州(湖南省)で卒(しゅっ)した。経学、小学、史学に通じ、任地の幕下に学者を招いて後進を育成したことで阮元(げんげん)と相似る。著に『伝経表』『釈名疏証(そしょう)』『続資治通鑑(しじつがん)』、各任地に応じての金石学の成果、関中・中州・山左の『金石志』、『夏小正』『山海経(せんがいきょう)』『墨子』『呂氏(りょし)春秋』などの校注があり、それらの著に恵棟の著『易漢学』などをあわせての精刻『経訓堂叢書(そうしょ)』がある。集は『霊巖山人詩集』。
[近藤光男 2016年3月18日]