20世紀日本人名事典 「白川福儀」の解説 白川 福儀シラカワ トミヨシ 明治・大正期の政治家,教育者 松山市長;海南新聞社長。 生年安政5年9月10日(1858年) 没年大正5(1916)年1月4日 出生地伊予国松山(愛媛県松山市) 旧姓(旧名)門田 経歴松山藩校の明教館に学んだのち上京し、漢学者三島中州の経営する私塾に入る。明治12年に帰郷して自由民権運動に参加。以後、長尾忠明・藤野政高らの民権系政治結社・公共社に拠り、その機関紙「海南新聞」の編集を担当。同編集長を経て明治17年には同社長に就任するなど、自由党系の論客として活躍した。25年愛媛県議になると同時に議長に選ばれ、29年には松山市長に就任。市長を退いた後は教育界で活動し、北予中学会専務理事や北予中学校長を歴任。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「白川福儀」の解説 白川福儀 しらかわ-とみよし 1858-1916 明治-大正時代の政治家,教育者。安政5年9月10日生まれ。東京の三島中洲(ちゅうしゅう)の塾でまなび,郷里の愛媛県松山市にかえって「海南新聞」(「愛媛新聞」の前身)の編集にあたり,明治17年社長。自由党の論客として知られた。29年松山市長,37年北予中学校長。大正5年1月4日死去。59歳。本姓は門田。号は拓北。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by