精選版 日本国語大辞典 「自由党」の意味・読み・例文・類語
じゆう‐とう ジイウタウ【自由党】
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(1)明治前期の自由民権運動隆盛のころに誕生した政党。自由党結成の動きは,国会開設運動が全国的に高揚した1880年に始まる。すなわち植木枝盛らから,全国に拡大した運動の組織強化のため,国会期成同盟を改組して自由主義を標榜する政党を組織すべしとする意見が提出される。そして,国会論,財政論の対立に開拓使官有物払下問題が加わって引き起こされた明治14年の政変により,国会開設の勅諭が発布される81年10月に相前後してこの提案は議決され,次いで自由党の盟約・規則の審議が行われた。その過程で機関紙発行問題や主導権争いから,沼間守一ら東京嚶鳴社(おうめいしや)グループと九州派が参加を拒否するに至った。結局,役員選挙において総理板垣退助,副総理中島信行以下の党役員が決定し,自由党は正式に発足する。党の盟約には〈自由を拡充し,権利を保全し〉〈善良なる立憲政体を確立する〉ことがうたわれていた。党指導部の中核は板垣を中心とする土佐派,とくに立志社系の民権家たちであった。それに加えて愛国社の活動や国会開設運動を通じて,全国的に有名になった河野広中ら,地方の有力な政治家たちも幹部を構成した。さらに,彼らの傘下にあった地方民権結社とそこに結集した士族や豪農,地主などの地方有力者たちが,自由党の支持基盤を形成している。
自由党の活動はまず,82年6月,党の機関紙たる《自由新聞》の発行に始まり,末広鉄腸,馬場辰猪,中江兆民,植木らが自由民権を称揚する記事を寄稿した。次に党幹部は全国を遊説し,各地で政談演説会,有志懇親会を開いて地方有力者の組織化を図った。しかし,このような活発な活動の展開にもかかわらず,自由党の目ざす具体的な政策は必ずしも明確ではなく,盟約自体がきわめて抽象的であった。また自由党としての憲法草案も結局作られなかった。なお,自由党はフランスにならった議論を主張したが,念頭にあったのは共和主義ではなく,あくまで〈君民共治〉の立権君主制であった。自由党は,地方レベルの着実な活動の積重ねを行った改進党とは対照的に,天下国家的活動を優位においたといえる。ところで,82年以後政府による硬軟両様の政党攻撃が行われ,自由党は板垣外遊問題をめぐって動揺をきたす。このような問題をめぐる改進党との暴露中傷合戦的な対立抗争の拡大に,松方デフレによる農村経済の逼迫(ひつぱく)が加わり,自由党の活動はしだいに衰退していった。84年に入ると各地で自由党急進派を中心とする激化事件が頻発し,これに対して幹部は党内を十分統制できず,10月解党を決議するに至った。
内閣制度創設後,86年に入ると星亨らは,後藤象二郎を中心に自由・改進両派の連携を軸に旧民権派を結集してきたるべき国会開設を目標とした大同団結運動を起こす。しかし,改進党は参加せず,後藤も運動が高揚した89年3月黒田清隆内閣に入閣したため,運動は分裂してしまった。にもかかわらず,90年7月の第1回衆議院総選挙の結果,民党系の議員が過半数を占めたため,板垣率いる土佐派と大井憲太郎を中心とする関東派および河野ら東北派の自由党系3派に,九州同志会が合同して9月,立憲自由党(翌年自由党と改称)が発足した。第1議会を通じて,自由党は第一党(130議席)だったにもかかわらず,4派の対立抗争に院外の壮士団の圧力が加わった結果,亀裂が生じ,ついに政府との妥協を図った土佐派が脱党してしまった(第2議会後に復党)。
その後,このような弱点を知悉(ちしつ)し,その克服を目ざした星を中心に,板垣の総理推戴によるリーダーシップの強化と,議員団中心の党組織への改革とが実施された。かくて,星は党内の主導権の確立と並行して,政策面においても〈民力休養,政費節減〉という消極的方針から,鉄道・河川改修等の地方への利益の供与と〈民力育生〉を図る積極政策への転換を考慮するに至った。日清戦争後,戦後経営を焦点に明確に積極主義への転換を決断した自由党は,95年公然と伊藤博文内閣との提携を宣言し,翌年板垣内相の就任に成功した。それは自由民権以来の藩閥対政党の対立という横断的な政界の構造を大きく変容させ,藩閥各派と政党各派との提携を軸とした縦断的な政界の構造へと転換したことを意味する。そして自由党と進歩党の合同による隈板内閣の失敗を含め,数次の試行錯誤の後,第2次山県有朋内閣との提携に限界を感じた星主導の憲政党(旧自由党)は,1900年伊藤を擁して立憲政友会を樹立するに至った。ここに自由党は,民権運動以来の民党的立場と,名実ともに断絶することにより,日本における政党政治への道を開いたのである。
→自由民権
執筆者:御厨 貴(2)第2次大戦後の保守政党。大戦直後から1950年代後半の二大政党制確立期に至るまで,日本の政治は多党化状況にあった。占領体制下の多党化状況の中で第1次から第5次までを数えた吉田茂内閣が成立。これらの吉田内閣を支えたのが自由党であり,党名は日本自由党,1948年3月に民主自由党(民自党),50年3月に自由党へと変遷した。
1945年11月9日,鳩山一郎を総裁とし,幹事長を河野一郎とする日本自由党が結党された。1週間遅れて結党された日本進歩党が大日本政治会の多数を結集し旧政党復活の印象を与えたのに対し,自由党は旧政党人であっても翼賛体制下における反東条派を結集する姿勢を示し,西尾末広など社会民主主義者の一部をも包含する動きを見せた。さらに,吉田茂などの新しい政党人を迎える方向で結党されたので,自由党は新保守党のイメージを選挙民に与えることに成功した。公職追放では,自由党も進歩党と同様な打撃を受けたが,戦後第1回の総選挙(46年4月)で141議席を獲得,第一党となった。ただし,鳩山一郎内閣成立直前に鳩山が追放の指示を受け,第1次吉田内閣が進歩党との連立内閣として成立する。吉田茂は46年8月,自由党総裁となり,これ以降,鳩山が追放解除されるまで吉田が自由党を代表する時代が展開された。
自由党の政権構想は,社会党との連立策,民主党や国民協同党との合同による新党工作,あるいは保守連立政権構想と揺れた。1947年の二・一スト前後,吉田茂は社会党書記長西尾末広に閣僚ポストの提供を条件とする連立工作を試みているが,それは労働攻勢への対応策であるとともに当時のGHQの示唆による方針であったと見られる。戦後第2回の総選挙(47年4月)の結果,社会党政権としての片山哲内閣が誕生,自由党は社会党と政策協定を結んだが連立には加わらず,47年8月,野党宣言を発表した。これ以降,自由党は保守合同による新党構想を提示する方針に転換するが,この転換はGHQ内部の対立露呈に対応するものとなっている。しかし,民主党は社会党との連立政権に走り芦田均内閣を樹立,吉田による〈救国大政党〉工作は,民主党の幣原喜重郎ほか少数を加えた民主自由党の発足(48年3月)として結実しただけであった。
芦田内閣倒壊後,第2次吉田内閣が少数単独政権として成立。この段階で政権構想は総選挙における過半数獲得を第一条件とする内容に変わる。民自党内では保守合同論と単独政権論が対立した。49年1月総選挙の結果,民自党は264議席を獲得,絶対多数を背景とする組閣に入る。ここで第3次吉田内閣が民主党に閣僚ポストを提供したのは,保守安定政権を求めるようになったGHQの意向を体するものであったと見られるが,同時にそれは民自党による民主党の包含工作でもあった。民主党は犬養健総裁を含む連立派と野党派に二分され,民自党は連立派を吸収し,講和条約締結の態勢づくりとして自由党を結党(50年3月)した。
冷戦構造に即応した占領政策の転換,ドッジ・ラインによる日本経済復興策の指示,講和条約締結の機運,朝鮮戦争の勃発とダレス訪日による再軍備要請の動向等への対応によって自由党と吉田内閣は絶頂期を迎える。池田勇人ら官僚出身の政治家の活躍が状況対応の巧みさを支える主要因であった。その自由党に内部分裂の兆しが見えたのは,50年を境に鳩山一郎を先頭とする追放解除組の活発な動きが開始されはじめてからである。党内に民主化同盟ができ(52年10月),自由党分党派が日本自由党を結党(53年11月),鳩山が離党し復党し再離党して日本民主党を結党(54年11月)する等の経過の中で自由党は第4次,第5次吉田内閣を単独政権として樹立するが,53年4月の選挙で過半数を割り,55年2月選挙で第二党となる。1954年12月,吉田内閣は総辞職,自由党総裁には緒方竹虎が就任。55年11月自由党は民主党と合同,保守合同として自由民主党を誕生させた。
執筆者:高橋 彦博
イギリスの政党。前工業化段階に生まれたホイッグ党の工業化社会における発展形態で,19世紀から20世紀の初めにかけて,保守党とともにイギリスの二大政党制を担った。その歴史は,1870,80年代を境に大きく二つに分けて考えることができる。
自由党は,その前身のホイッグ党の系譜を引く進歩・革新の政党で,19世紀の初頭にいたるまでは,もっぱらホイッグ,すなわち進歩的地主貴族の政党であった。だが,ナポレオン戦争終了後,1820年代から新興ブルジョア階級と結びつき,以後この階級の思想・利害を積極的に代弁するようになった。その最初の契機となったのは選挙法改正問題で,30年に成立したグレー・ホイッグ党内閣は,参政権(=下院議員の選挙権)を要求するブルジョア階級の意向を全面的に支持し,32年に第1次選挙法改正を実現した。また同党は,国教と非国教の区別がもたらす社会の不合理を攻撃して,非国教徒やベンサム主義者の支持をも取りつけた。こうしてホイッグ党は,ブルジョア階級をはじめとする社会の中間諸勢力との結びつきを強め,40年代以降は,改正選挙法にもとづいて議会に進出してきたR.コブデン,J.ブライトらのブルジョア急進主義者を党員に加え,46年には,彼らの主張する穀物法撤廃の要求を承認して,完全な自由貿易の達成を党是とするにいたった。一方,この間,党の指導権は,なおホイッグ貴族の手中にあったが,ホイッグ党と並んで自由党Liberalsの呼称がしげく用いられるようになり,40年代には,後者の自由党のほうがむしろ優勢となった。50,60年代の自由党は,自由貿易主義の旗の下に,今や完全に保守党を圧倒したが,党の最高指導者は,なおホイッグ貴族のJ.ラッセルとパーマストンであった。だが,65年にパーマストンが死に,67年にW.E.グラッドストンが党首に就任するに及んで党の性格は一新され,党勢の伸張もその極点に達した。68年から74年にかけての第1次グラッドストン内閣の時代は,古典的自由主義体制の黄金時代で,自由貿易は完成の域に達し,自由と節約は国民全体の信条となった。また,アイルランド国教会の廃止(1869),大学教育における宗教差別の撤廃といった政策を通じて非国教徒の解放が進んだほか,対外政策の面では,グラッドストンの強い個性を反映して,平和主義が党の路線として定着した。
19世紀の70,80年代は,対内的にも対外的にも歴史の大きな転換期であった。対内的には,67年と84年の選挙法改正によって労働者階級にまで選挙権が拡張された。自由党が党勢を維持・拡大していくためには,党と政治のあり方を民主化して労働者階級の利害を政治に反映する一方,選挙において彼らの支持を取りつけていくことが不可欠となった。そのため,この状況に対応して,1867年の第2次選挙法改正後,バーミンガムを中心に有権者の組織化が進み,77年,全国自由党連合が成立して,それまで,すぐれて議会内の政党であった同党は,全国的に有権者の大衆的組織をもつ統合政党へと発展した。だが,80年代以降,第2期の自由党を根底から大きく揺り動かしたのは,対外的な問題,とくにイギリス帝国の問題であった。この時期のイギリスは,アメリカ合衆国,ドイツ等列強の世界市場進出に押されて帝国への依存度を高めたが,党首グラッドストンは,議会内のアイルランド党と協力して,あくまでも平和主義の路線に固執し,その見地からアイルランド問題の解決に熱中した。だが,党内ホイッグ貴族とJ.チェンバレンをはじめとする急進派は,イギリス帝国の利害を重視する立場から党首に同調せず,86年のアイルランド自治法案の審議を契機に脱党して自由統一党を結成した。以後,ボーア戦争(1899-1902)にかけて,自由党は,議会内で多数党の地位を失っただけでなく,党内もグラッドストン派と自由帝国主義者が対立して弱体化し,政局の主導権を保守党にゆだねなければならなかった。この時期の自由党に必要であったのは,進歩・革新の党として帝国主義と大衆民主化の時代に対応する新しい自由主義の政治理念を確立することであった。しかし,古典的自由主義者のグラッドストンはそれを果たすことができず,次代の若い党指導者たちも,なおそれを見いだしかねていたのである。
ボーア戦争後,保守党が,チェンバレンの提起した関税改革問題で混乱に陥ったとき,自由党にもう一度チャンスが到来した。自由党は,自由貿易の旗の下に再び結集して1905年の選挙に大勝し,以後,キャンベル・バナマン,アスキス,ロイド・ジョージの指導の下に,約10年間にわたって政権を担当した。この間に,相続税と累進課税による所得の再分配,社会福祉政策の拡大,貴族院の権限縮小等の民主的な大改革を実行する。だが,このときすでに,新しい革新の党として,労働者階級の利害をより直接に代表する階級政党の労働党が台頭してきており,その社会主義の主張の前に,自由党の革新主義はしだいに色あせていった。第1次大戦後,自由党は,20年代のあいつぐ選挙に敗北を重ね,ついに保守党と労働党につぐ第三党の地位へと転落した。そして第2次大戦後は,二大政党の地位を完全に上記の両党に譲り,今日にいたっている。
執筆者:村岡 健次
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1明治期の政党。1881年(明治14)成立。全国的に活況を呈していた民権派結社を結集する中央政党結成の気運をうけ,板垣退助を総理,中島信行を副総理として結党。立憲改進党とともに自由民権運動の中心として活動したが,国会開設まで10年という長期間の運動を指導していくことの困難さや,板垣・後藤洋行問題に端を発した内紛,改進党との軋轢,弾圧強化,資金難などで行き詰まり,84年10月解党。やがて大同団結運動で民権派再結集の気運が盛り上がり,大同倶楽部・再興自由党・愛国公党の旧自由党3派に九州同志会が合同し,90年9月,立憲自由党を結成(翌年自由党と改称)。改進党とともに民党連合を形成し,初期議会で藩閥政府と激突したが,第4議会頃から第2次伊藤内閣に接近し,日清戦後の96年4月には板垣退助が内相として入閣。98年6月,地租増徴などをめぐり藩閥が政権維持の展望を失ったのをうけて進歩党と合同,憲政党を組織した。
2昭和戦後期の政党。1950年(昭和25)3月,民主自由党と民主党連立派の合同によって成立。総裁吉田茂。成立時は第3次吉田内閣期で,以後第5次吉田内閣まで政権を担当。この間サンフランシスコ講和条約の締結,日米安保体制の確立,資本主義経済の再建,警察予備隊の新設など,戦後日本の進路を決定づける諸政策を遂行した。55年11月,日本民主党からの保守合同のよびかけや財界の要請に応じて解党し,自由民主党の結成に参加した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…78年9月立志社が中心となって愛国社を再興し,国会の開設を求める自由民権運動を推進した。81年10月自由党の結成にあたって総理に推され,翌年4月遊説途中の岐阜で刺客に襲われ負傷。このとき叫んだという〈板垣死すとも自由は死せず〉のエピソードは,彼の経歴中最も輝かしい時期の象徴である。…
…1955年11月15日,民主党と自由党の合同による自由民主党の結成をいう。1952年4月のサンフランシスコ講和発効後,政界に復帰した追放解除者と戦後派保守政治家との対立がしだいに表面化した。…
…政府はこの明治14年の政変(1881)により民権運動に一定の譲歩をする一方で,政府内の異端を排除して藩閥政府の態勢を整えるとともに,欽定憲法主義や天皇大権確立など立憲制採用の基本方針を決定し,翌年には参議伊藤博文を憲法調査のために渡欧させた。 他方,自由民権派は愛国社から国会期成同盟へと組織を変更しながら国会開設運動を推進してきたが,それが母体となって1881年10月に自由党が結成され,板垣退助を総理に推した。この自由党は一院制議会を構想し基本的人権の確立をめざして,地主や農民など農村部に主たる基盤をおいた。…
… 19世紀後半に入り,都市化と産業化の成熟,あるいは1867,84両年の選挙権の大幅拡大などを背景に,トーリーとホイッグは,土地貴族支配を頂点では残しながらも,院外党組織の拡充,党規律の強化,社会政策の積極的導入を進めた。この過程で名望家政党から大衆組織政党への脱皮が進み,トーリーは保守党,ホイッグは自由党と名称も変え,現代的な二大政党制が成立する。同時に,選挙によって多数派となった政党が,党首を首班とする内閣を通して,選挙公約に掲げた一連の政策を実施する傾向,つまり政党内閣化が進んでいく。…
…45年,植民大臣となり,46年,穀物法の廃止に際してこれを支持,ピールと行動をともにし分裂した保守党を離れた。52年,自由党とピール派が連立して成立したアバディーン内閣(1852‐55)に蔵相として入閣,翌53年,自由主義的な画期的予算案を成立させ,財政家としての名声を博した。57年,第2次アヘン戦争(アロー号事件)に際し,平和主義の立場からパーマストンの砲艦外交を厳しく非難したものの,59年にはついに自由党に入党,同時にパーマストン内閣(1859‐65)の蔵相となり,関税引下げ政策の徹底,英仏通商条約の締結(1860)によってイギリスの自由貿易政策を完成の域へともたらした。…
…19世紀末葉から20世紀初頭にかけてイギリス自由党内に生まれた一部の思想・主張をいう。グラッドストンの引退後,ローズベリー伯(1894‐95首相),R.B.ホールデーン,E.グレー,H.H.アスキス(1908‐16首相)ら一部の自由党議員は,イギリス帝国の統合に強い関心を寄せるようになり,自由帝国主義者と呼ばれた。…
…
[イギリス]
しかし,政党はまさしくこの時期に発達し,しだいに政治的に無視できない勢力を形成するようになった。イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。…
…もともとは道の中央あるいは中庸公正な道の意であるが,政治用語としては,一般的に左右の政治勢力の中間に位置する政治的立場を指す。このような立場を標榜する政党が〈中道政党〉であり,この種の政党の典型としてあげられるのが,西ドイツのキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)とドイツ社会民主党(SPD)の中間に立ち,1949‐66年にはCDU/CSUとの,69年以降はSPDとの〈小連立〉に参加してきた自由民主党(FDP)や,社会主義なしの社会改革を主張し,政治的スペクトル上で保守党と労働党の中間点を占めるイギリス自由党,さらに労働党よりは穏健で保守党ほど保守的でない立場を唱えて労働党からの離脱者を中心に81年3月に結成されたイギリス社会民主党などである。日本で中道勢力をめぐる論議が盛んになってきたのは,1970年代後半以来の1955年体制崩壊期においてで,〈55年体制〉下の保守・革新の二分法的政治勢力配置状況のなかで,その中間に立つ第三勢力として台頭してきた諸政党が中道勢力と呼ばれてきたが,とくに公明,民社,社会民主連合のみを指して〈中道3党〉という場合と,これに新自由クラブを加えて〈中道4党〉という場合がある(新自由クラブは1986年解党)。…
…イギリスの自由党政治家。父はウェールズ出身,ユニテリアン派の学校教師であったが1864年死亡。…
※「自由党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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