三島中洲(読み)ミシマチュウシュウ

デジタル大辞泉 「三島中洲」の意味・読み・例文・類語

みしま‐ちゅうしゅう〔‐チユウシウ〕【三島中洲】

[1831~1919]漢学者備中びっちゅうの生まれ。名はつよし。東大教授・東宮侍講宮中顧問官などを歴任。明治10年(1877)漢学塾二松学舎を創立した。著「詩書輯説」「論学三百絶」「中洲文稿」など。

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精選版 日本国語大辞典 「三島中洲」の意味・読み・例文・類語

みしま‐ちゅうしゅう【三島中洲】

  1. 漢学者。文学博士備中国岡山県)の生まれ。名は毅。字は遠叔。通称貞一郎。江戸に出て昌平黌に学ぶ。明治一〇年(一八七七)二松学舎を創立。東京高師・東京帝大教授歴任。のち東宮侍講、宮中顧問官。著「詩書輯説」「古今人文集」「万貢図」「論文三百絶」など。天保元~大正八年(一八三〇‐一九一九

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改訂新版 世界大百科事典 「三島中洲」の意味・わかりやすい解説

三島中洲 (みしまちゅうしゅう)
生没年:1830-1919(天保1-大正8)

漢学者。備中(岡山県)の生れ。名は毅(つよし),字は遠叔,通称貞一郎,中洲は号。郷里陽明学山田方谷に学んだのち,伊勢の津藩で斎藤拙堂,江戸昌平黌(こう)で佐藤一斎,安積艮斎(あさかごんさい)に師事し,帰郷して備中松山藩に仕え,藩学有終館の学頭に進んだ。維新後,法官となり,のち大審院中判事に至ったが,1877年退官して,東京麴町一番町に家塾〈二松学舎〉を設け,漢学を教授した。のち,ふたたび官に仕え,東京高師,東京帝大古典科教授,東宮侍講,宮中顧問官を歴任した。漢文にすぐれ重野安繹(やすつぐ),川田甕江(おうこう)とともに明治の三大文宗と称される。著に《中洲詩稿》《中洲文稿》がある。
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朝日日本歴史人物事典 「三島中洲」の解説

三島中洲

没年:大正8.5.12(1919)
生年:天保1.12.9(1831.1.22)
幕末明治大正期の漢学者,法律家。名は毅,字遠叔,通称貞一郎。号中洲,桐南,絵荘,陪鶴老仙など。備中中島村(岡山県倉敷市)の里正の家に生まれる。山田方谷,斎藤拙堂に師事して程朱,陽明,古学を学び,20歳代にして時務策に執心。昌平黌に入り,佐藤一斎,安積艮斎に教えを受ける。備中松山藩士として有終館に教え,昌平黌詩文掛や藩の武備掛を兼務。不穏な西国情勢のなかであらためて師方谷流の陽明学に傾斜した。明治初年,朝廷鎮撫使による藩論佐幕の譴責を受け,それを打開したのち致仕。明治5(1872)年,新政府から徴され司法省に出仕,東京裁判所,新治裁判所,大審院特選判事などを歴任。10年麹町に二松学舎を創設。東京師範学校出講ののち東京大学文科大学古典科教授となり,19年退官。再度法曹界に入り(大審院検事,判事)民法修正に当たる。宮中の信頼も厚く東宮御用掛や宮中顧問官を務めた。<著作>『中洲文稿』『中洲講話』『霞浦游藻』<参考文献>門人輯『三島中洲先生年譜』

(宮崎修多)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三島中洲」の解説

三島中洲 みしま-ちゅうしゅう

1831*-1919 幕末-明治時代の漢学者。
文政13年12月9日生まれ。備中(びっちゅう)(岡山県)の人。山田方谷(ほうこく)に師事し,昌平黌(しょうへいこう)にまなぶ。備中松山藩校有終館の学頭をへて,維新後は大審院判事などをつとめた。明治10年東京に二松学舎をひらく。のち東京師範,東京大学の教授,東宮侍講,宮中顧問官を歴任。大正8年5月12日死去。90歳。名は毅。字(あざな)は遠叔。通称は貞一郎。著作に「中洲詩稿」など。

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