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三島中洲 みしま ちゅうしゅう

美術人名辞典の解説

三島中洲

松山藩士・漢学者。名は毅、字は遠叔、号は桐南、のち中洲。山田方谷斎藤拙堂に学ぶ。維新後、判検事・宮中顧問官となる。二松学舎を創立し、漢文学界に貢献した。大正8年(1919)歿、90才。

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デジタル大辞泉の解説

みしま‐ちゅうしゅう〔‐チユウシウ〕【三島中洲】

[1831~1919]漢学者。備中(びっちゅう)の生まれ。名は毅(つよし)。東大教授・東宮侍講宮中顧問官などを歴任。明治10年(1877)漢学塾二松学舎を創立した。著「詩書輯説」「論学三百絶」「中洲文稿」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

三島中洲 みしま-ちゅうしゅう

1831*-1919 幕末-明治時代の漢学者。
文政13年12月9日生まれ。備中(びっちゅう)(岡山県)の人。山田方谷(ほうこく)に師事し,昌平黌(しょうへいこう)にまなぶ。備中松山藩校有終館の学頭をへて,維新後は大審院判事などをつとめた。明治10年東京に二松学舎をひらく。のち東京師範,東京大学の教授,東宮侍講,宮中顧問官を歴任。大正8年5月12日死去。90歳。名は毅。字(あざな)は遠叔。通称は貞一郎。著作に「中洲詩稿」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

三島中洲

没年:大正8.5.12(1919)
生年:天保1.12.9(1831.1.22)
幕末明治大正期の漢学者,法律家。名は毅,字遠叔,通称貞一郎。号中洲,桐南,絵荘,陪鶴老仙など。備中中島村(岡山県倉敷市)の里正の家に生まれる。山田方谷,斎藤拙堂に師事して程朱,陽明,古学を学び,20歳代にして時務策に執心。昌平黌に入り,佐藤一斎,安積艮斎に教えを受ける。備中松山藩士として有終館に教え,昌平黌詩文掛や藩の武備掛を兼務。不穏な西国情勢のなかであらためて師方谷流の陽明学に傾斜した。明治初年,朝廷鎮撫使による藩論佐幕の譴責を受け,それを打開したのち致仕。明治5(1872)年,新政府から徴され司法省に出仕,東京裁判所,新治裁判所,大審院特選判事などを歴任。10年麹町に二松学舎を創設。東京師範学校出講ののち東京大学文科大学古典科教授となり,19年退官。再度法曹界に入り(大審院検事,判事)民法修正に当たる。宮中の信頼も厚く東宮御用掛や宮中顧問官を務めた。<著作>『中洲文稿』『中洲講話』『霞浦游藻』<参考文献>門人輯『三島中洲先生年譜』

(宮崎修多)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

みしまちゅうしゅう【三島中洲】

1830‐1919(天保1‐大正8)
漢学者。備中(岡山県)の生れ。名は毅(つよし),字は遠叔,通称貞一郎,中洲は号。郷里で陽明学の山田方谷に学んだのち,伊勢の津藩で斎藤拙堂,江戸昌平黌(こう)で佐藤一斎,安積艮斎(あさかごんさい)に師事し,帰郷して備中松山藩に仕え,藩学有終館の学頭に進んだ。維新後,法官となり,のち大審院中判事に至ったが,1877年退官して,東京麴町一番町に家塾〈二松学舎〉を設け,漢学を教授した。のち,ふたたび官に仕え,東京高師,東京帝大古典科教授,東宮侍講,宮中顧問官を歴任した。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

みしまちゅうしゅう【三島中洲】

1830~1919) 漢学者。備中の人。名は毅つよし。漢学塾二松学舎を創立。東京高師・東大教授、東宮侍講・宮中顧問官を歴任。著「詩書輯説」「古今人文集」など。

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