益田元祥(読み)ますだ もとよし

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

益田元祥 ますだ-もとよし

ますだ-げんしょう

益田元祥 ますだ-げんしょう

1558-1640 織豊-江戸時代前期の武士。
永禄(えいろく)元年生まれ。石見(いわみ)(島根県)益田領主益田藤兼(ふじかね)の次男。毛利輝元につかえ,おおくの戦功があった。関ケ原の戦いののち減封された(はぎ)(長州藩)の財政をたてなおし,雄藩としての基礎をつくった。これにより益田氏は永代家老となる。寛永17年9月22日死去。83歳。通称は次郎,右衛門佐,玄蕃頭。号は牛庵。

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朝日日本歴史人物事典の解説

益田元祥

没年:寛永17.9.22(1640.11.5)
生年:永禄1(1558)
江戸前期の萩藩永代家老。石見国益田領主益田藤兼の次男。幼名は次郎,のち右衛門佐,又兵衛,玄蕃頭。隠居後牛庵。慶長5(1600)年関ケ原の戦ののち,長門国阿武郡須佐(山口県須佐町)に移った。先収貢租返還(関ケ原の戦によって削られた6カ国分の貢租を新領主に返還)の方途の立案者。また,元和9(1623)年~寛永9(1632)年財政改革に当たり,毛利秀元の統轄のもと,当職(萩藩国元統治機構の最高位)として顕著な実績をあげた。自己の毛利家への奉公ぶりを書き上げた『牛庵覚書』は著名。<参考文献>山口県文書館『萩藩閥閲録

(田中誠二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典内の益田元祥の言及

【須佐[町]】より

…北部は日本海に面しているが,大部分は山間地で,中央部の犬鳴山付近の分水嶺を境に須佐地区と弥富地区に分かれる。中心集落の須佐は日本海に臨む漁港で,1601年(慶長6)石見益田の城主益田元祥が当地に移り,近世を通じて支配した。沿岸航路の寄航地としても栄え,町場も形成された。…

※「益田元祥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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