日本歴史地名大系 「目丸村」の解説 目丸村めまるむら 熊本県:上益城郡矢部町目丸村[現在地名]矢部町目丸東には菅(すげ)村、西には黒谷(くろたに)川と目丸山(一三四一・三メートル)・京丈(きようじよう)山(一四七二・五メートル)を隔てて下益城郡下福良(しもふくら)村・夏水(なつみ)村(現砥用町)があり、南は京丈山・国見(くにみ)岳(一七三八・八メートル)を結ぶ線で八代郡五箇庄葉木(ごかのしようはぎ)村・樅木(もみき)村(現泉村)および日向国と境する。天正一四年(一五八六)島津氏の侵入によって阿蘇大宮司家の最後の当主惟光と弟惟善は、浜(はま)の館から当村山崎家に落延びたと伝えられ、幼少の惟光のものといわれる鎧などが残る。 目丸村めまるむら 鹿児島県:大口市目丸村[現在地名]大口市目丸原田(はらだ)村の北にあり、北を篠原(しのはら)村、東を青木(あおき)村に囲まれる。西側を木之氏(きのうじ)川(水之手川)が流れる平坦地ではあるが、古くは沼地が広がり、田も深田ばかりで農業が困難であった。そのため他郷から来た者は皆目を丸くして驚き、そこから目丸村の名前がついたともいわれる(鹿児島県維新前土木史)。大口筋が東西に通り、また東へ肥後国球磨(くま)地方へと抜ける道があった。元禄国絵図には「目丸村より大隅国重留村迄弐拾弐町九間」とある。元亨二年(一三二二)一〇月二六日の大秦(太秦)元尚和与状(旧記雑録)に牛屎(うしくそ)院のうちとして目丸里がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by