黒谷村(読み)くろたにむら

日本歴史地名大系 「黒谷村」の解説

黒谷村
くろたにむら

[現在地名]只見町黒谷

長浜ながはま村の西にあり、同村との境を北流する黒谷川が伊南いな川に合流する河岸段丘上に位置する。沼田街道に沿って本村があり、小名・端村は黒谷川に沿って上流にさかのぼる。江戸時代には黒谷組一四ヵ村の中心で郷頭が置かれ、制札場や米倉などもあった。「異本塔寺長帳」に応永八年(一四〇一)伊北いほう黒谷村の住人江長六郎が万願寺を建立し、鎮守として七社大明神を祀ったとある。「新編会津風土記」では同明神を八所神社とし、寛文(一六六一―七三)頃までは「八所宮于時応永八辛巳年十月八日大旦那江長六郎敬白」という銘をもつ鰐口一口があったという。江長六郎については不明。また「異本塔寺長帳」に永正一二年(一五一五)山内兵庫が知慶を開山として龍泉りゆうせん(現真言宗豊山派)を建立したとある。


黒谷村
くろやむら

[現在地名]秩父市黒谷

荒川を境に蒔田まいた村・寺尾てらお村の東方にある。南は栃谷とちや村、および荒川の支流横瀬よこぜ川を境に大野原おおのはら村、北は皆野みなの(現皆野町)。北東にみの(五八六・九メートル)がそびえる。秩父往還が南北に通る。地名は木立が黒く茂っている意という(風土記稿・増補秩父風土記・秩父志)。縄文時代前期・中期の集落跡や岩陰遺跡がある。現東京都青梅市塩船しおふね観音寺蔵の応安六年(一三七三)七月一〇日の年紀をもつ大般若経巻二三奥書に「奉於黒谷郷大畠之少菴而覚能僧書之」とみえる。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]八尾市黒谷・高安たかやすきた一―三丁目・同五―七丁目・高安たかやすみなみ一―二丁目・同七丁目・山本高安やまもとたかやす町一―二丁目

郡川こおりかわ村の南、高安山麓に立地。西方は教興寺きようこうじ村。耕地は山裾から思智おんぢ川筋の低地まで延び、教興寺村の耕地と錯雑して入組んでいる。八尾からきた信貴しぎ道は、教興寺村・当村を抜けて山に入り、大和平群へぐり南畑みなみはた(現奈良県生駒郡三郷町)から信貴山しぎさん寺に至る。信貴道が教興寺で東高野街道と交差する所に古い道標が立つ。「和州信貴山毘沙門天王」への道順を示す宝永五年(一七〇八)のもので、この道標を基点に山中へ登る。


黒谷村
くろやむら

[現在地名]岩槻市黒谷

下新井しもあらい村の南西、岩槻台地の中央部に位置し、村域は舌状台地・谷地・沖積平野からなる。集落は台地上に形成されている。地名は慶長一七年(一六一二)さき勝軍しようぐん寺領の検地帳(同寺蔵)の表紙に「武蔵国騎西郡黒谷之内尾ヶ崎之郷」とみえる。宝暦六年(一七五六)まで岩槻藩領、以後は幕府領。田園簿に黒屋村とみえ、高は田方五七七石余・畑方三〇八石余。「寛文朱印留」には黒谷村とある。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]板野町黒谷

加須谷がずだに村の西、阿讃あさん山脈から南へ流れる黒谷川流域にある。西は神宅かんやけ(現上板町)。近世初期には南の矢武やたけ村の枝村で、元和年間(一六一五―二四)から開発されたと伝える(郡村誌)正保国絵図に黒谷村とみえ、高二七石余、新田とある。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳には村名は記されていない。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高一八石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高五二石余。「阿波志」によると土田は中等、陸田一〇分の三・水田一〇分の七、反別一一町余、高五〇石の五分の二が采地。


黒谷村
くろたにむら

[現在地名]綾部市黒谷町・八代やしろ

伊佐津いさづ川が丹波山地の北端をえぐり先行性の峡谷となって丹後へ流れ出る、その国境に接した支谷(黒谷川)に沿って位置する。古くは奥黒谷おくくろたに(現八代町)口黒谷くちくろたに(現黒谷町)とよび、併せて黒谷村と称した。伝説によれば、鎌倉時代に平家の落武者一六人によって開村されたといい、あるいは江州の落武者が隠れ住んだのが始まりという。

天正一〇年(一五八二)には一柳市助が上杉村の野瀬のせおよび黒谷で五〇石を宛行われているが(一柳文書)、これは当地が豊臣氏の蔵入地の一部であったからと思われる。


黒谷村
くろやむら

[現在地名]鳳来町門谷かどや

三輪みわ川の支流大井おおい川の水源地である。現在は黒谷とみねを合わせて峯とよび一集落になっている。峯の南向き斜面の裾、現在の字黒谷・みやわきたき木田きだおよび飛地の峯貝津みねかいつを含む範囲が黒谷村であった。長篠ながしのの戦当時の長篠城主奥平貞昌(後の信昌)の家老で、黒谷郷七ヵ村の領主黒谷(後の黒屋)氏発祥の地。


黒谷村
くろたにむら

[現在地名]大野市下黒谷しもくろたに上黒谷かみくろたに

飯降いいふり山の東南麓にあり、西は間戸まど坂を越えて河内こうち(現足羽郡美山町)に至る。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に「黒谷郷」とみえる。中世には小山おやま庄に含まれると推定される。永享一二年(一四四〇)四月日付春日社領越前国大野郡小山庄田数諸済等帳(天理図書館蔵)に「黒谷領家御方田数御年貢等事」とあり、広田五町のうち公田三町六反五八歩、年貢五二・二六石、御服三一両、カラ苧三四両、夫賃・夫役・帷代計銭一五貫五〇〇文、地下放物三石八斗であった。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]東条町黒谷

土井どい村の北、東条川と支流かも川の合流点右岸の丘陵地にある。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に「ユフ子クロタニムラ」とある。「ユフ子」は黒谷の小字井船か。慶長国絵図には黒谷と記される。「くろい谷村」とも称する(慶長一〇年「東条谷十六ヵ村百姓等訴状案」清水寺文書)。慶長六年(一六〇一)高四八六石余が池田輝政の家臣福田牛介(四千二〇〇石取)知行地となる(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)正保郷帳によると田方三八三石余・畠方二一石余、幕府領。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]上川村三方みかた

柴倉しばくら川の支流戸沢とざわ谷地やちの二河川の合流点の北に位置する。「新編会津風土記」によれば家数一二、南の小名大滝おおたき新田は一で寛文八年(一六六八)に開いたという。南東の端村谷地は一〇。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「黒谷 六十一石五斗三升 御倉入」とあり、蒲生氏直轄領であった。元文五年(一七四〇)の御検地人別名寄帳(清野イト氏蔵)では高一四〇石六斗余で、内訳は本田方二五石四斗余・畠方五〇石三斗余、新田方六四石八斗余。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]和歌山市黒谷

名草なくさ郡に属し、頭陀寺ずだじ村の東南にある。集落は北部の井の内いのうち、南東部の久保原くぼはら、中央の本村ほんむらに分れる。長承元年(一一三二)一一月一六日付山東庄立券文案(根来要書)の四至のうちに「限南黒谷」とみえ、高野山大伝法院領山東さんどう庄の南限にあった。慶長検地高目録によると高二一九石余、小物成七斗九升九合。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]和歌山市上黒谷うえくろだに

名草なくさ郡に属し、藤田ふじた村の北、和泉国との国境葛城(和泉)山脈南麓にある。天文一六年(一五四七)三月一五日付の山口庄中司等連署下地売渡状(国立史料館蔵名草郡古文書)の売人の加判者の一人十郎二郎の肩書に「クロタニ」とみえる。中世は山口やまぐち庄に属した。慶長検地高目録によれば高三七〇石余、小物成五升四合。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]魚津市黒谷

片貝かたかい谷の片貝川右岸にあり、片貝三ヵ山に含まれる。対岸は島尻しまじり村、北は東城とうじよう村。文化七年(一八一〇)の新川郡郷庄附村名書上申帳(加越能文庫)は「クロタニ」と読む。正保郷帳では高二五石余、畑方一町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三四石・免四ツ七歩、小物成は山役三四匁・蝋役四匁、薪木呂役二四四匁七分(うち三二匁七分は出来)、鱒役二匁・鮎川役二匁、うすころ役四匁三分(出来)である(三箇国高物成帳)


黒谷村
くろたにむら

[現在地名]東予市黒谷

道前どうぜん平野の北西方の山間盆地にある。越智おち郡に北流する頓田とんだ川の上流に位置し、竜門りゆうもん(四八八・九メートル)の西にあたる。南は河之内かわのうち村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)桑村くわむら郡の項に「黒う谷村 芝山有、小川有」とみえ、石高は四七石。うち田方三七石六斗六升一合、畠方九石三斗三升九合とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記に「黒谷村」とみえ、石高も同じである。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]洞戸村下洞戸しもほらど

板取いたどり川左岸に位置し、東は大野おおの村。同川は当村付近で南流から東流へと曲折し、「濃州徇行記」に「水当つよき処にて漸々河決し段畝減ずとなり、石地にて砂交り也」と記されるが、山間としては土地が開け、日当りがよい。同記は「くろや」と訓ずる。正保四年(一六四七)の洞戸村免定(河合文書)に黒谷分とみえる。元禄郷帳に洞戸黒谷村と記され、高四四石余。「濃州徇行記」によれば高九一石余、田六畝余・畑七町二反余、家数二二ほど(かつては三八ほどあったが、流行病により減少)・人数一六六、紙漉が多い。


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]岩美町黒谷

院内いんない村の南、小田おだ川支流黒谷川流域に位置する。拝領高は一〇九石余、本免は四ツ三分。名倉氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一五〇石余、竈数一五。慶応四年(一八六八)藩が当村から松割木を買上げることとなった。一〇貫当りの代銀は五匁、鳥取への運賃は七〇〇貫積の舟で銀二〇〇匁と見積られた(在方諸事控)


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]北淡町黒谷

育波いくは村の南東、北西流する育波川上流山間部にある。正保国絵図に村名がみえ、高三二〇石余。天保郷帳では高四三三石余。反別戸数取調書によると反別五三町九反余、高六四〇石余、うち四五六石余を蜂須賀駿河ら一六人の給人が知行。蔵入地は一八九石余。家数一二七・人数五七一(男二九一・女二八〇)


黒谷村
くろだにむら

[現在地名]荘川村黒谷

しよう川の上流と寺河戸てらこうど川の合流地点に開けた村で、南は寺河戸村、東は高山街道で三尾河みおご村に続く。浄念じようねん寺の文亀二年(一五〇二)実如下付の方便法身尊像裏書に「白川郷黒谷願主釈浄念」とある。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高三一石余、田八反余・畑六町一反余。「飛騨国中案内」によれば免は二割六分三厘、家数二五、うち百姓二二・門屋一・家抱一・寺一。「斐太後風土記」の高五四石余、焼畑四町八反余、ほか九町六反余、家数二四・人数一六〇余、米少々のほか雑穀・繭・バンドリなどを産した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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