出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…戦国時代,肥後国球磨,葦北,八代の3郡を領した大名相良氏の分国法。1493年(明応2)4月22日付の為続法度(7ヵ条),制定年月不明の長毎法度(13ヵ条)と1555年(弘治1)2月7日付晴広法度(22ヵ条)からなり,前2者は1549年(天文18)5月に晴広によりその効力を再保証された。この時期の相良氏の法は,相良氏によって制定されるものと,相良氏の支配領域の3郡それぞれの小領主たちによって結ばれた郡中惣によって起草され,彼らの主人相良氏の承認によって制定されるものとがあったが,晴広法度は前者,為続・長毎法度は後者に属するものと想定される。…
…そしてその制圧によって肥後の近世化は一気に推進されることになる。【工藤 敬一】
【近世】
[所領配置]
1588年佐々成政が国衆一揆の責を負って改易されたあと,肥後は上使衆によって検地(太閤検地)が行われ,ついで北部半国(9郡19万5000石)に加藤清正,南部半国(4郡14万6300石)に小西行長が封ぜられ,旧領を安堵された球磨郡(2万2100石)の相良長毎(ながつね)と3人で肥後国を三分することとなった。加藤清正は隈本(くまもと)城に入ったが,領内は国衆一揆で土豪層が排除されており,静謐(せいひつ)であった。…
…肥後国(熊本県)人吉に藩庁を置いた外様小藩。藩主相良氏は鎌倉期に人吉荘の地頭職を得,戦国期には一時球磨,芦北,八代の3郡を領有したが,島津氏の勢力伸張に屈した。20代長毎(ながつね)は島津氏に属したが,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐時に下って球磨郡の旧領を安堵され,ついで関ヶ原の戦には東軍徳川方に内応して命脈を保った。長毎は人吉城の修築,城下町形成など藩政の確立に努めた。近世の人吉藩は球磨郡と日向の米良山を領し,椎葉山を管理した。…
※「相良長毎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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