相良長毎(読み)さがら・ながつね

朝日日本歴史人物事典 「相良長毎」の解説

相良長毎

没年:寛永13.6.13(1636.7.15)
生年天正2.5.4(1574.5.24)
江戸初期の大名肥後国(熊本県)人吉藩藩主。通称四郎次郎,左兵衛佐。初名頼房。相良義陽次男。母は豊永下総某の娘。兄忠房の早世により,天正13(1585)年襲封。同15年豊臣秀吉九州征討では島津軍に加わったが老臣深水宗方の懇願により本領安堵。慶長5(1600)年関ケ原の戦も初め西軍に属したが東軍に寝返り安堵に成功した。元和5(1619)年椎葉一揆を鎮定相良氏は球磨一郡を領する小藩ながら,鎌倉時代以来の本領を安堵された有数の藩であり,長毎は危ない橋を幾度も渡りながら,うまくこれを乗り切った。<参考文献>『人吉市史

(福田千鶴)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「相良長毎」の解説

相良長毎 さがら-ながつね

1574-1636 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天正(てんしょう)2年5月4日生まれ。相良義陽(よしひ)の次男。肥後(熊本県)人吉城主となる。豊臣秀吉につかえ,朝鮮出兵にしたがう。関ケ原の戦いでは,はじめ西軍,のち東軍につき,人吉藩2万2000石の初代藩主となった。寛永13年6月13日死去。63歳。初名は頼房。通称は四郎次郎,左兵衛佐。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「相良長毎」の解説

相良長毎 (さがらながつね)

生年月日:1574年5月4日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1636年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の相良長毎の言及

【相良氏法度】より

…戦国時代,肥後国球磨,葦北,八代の3郡を領した大名相良氏の分国法。1493年(明応2)4月22日付の為続法度(7ヵ条),制定年月不明の長毎法度(13ヵ条)と1555年(弘治1)2月7日付晴広法度(22ヵ条)からなり,前2者は1549年(天文18)5月に晴広によりその効力を再保証された。この時期の相良氏の法は,相良氏によって制定されるものと,相良氏の支配領域の3郡それぞれの小領主たちによって結ばれた郡中惣によって起草され,彼らの主人相良氏の承認によって制定されるものとがあったが,晴広法度は前者,為続・長毎法度は後者に属するものと想定される。…

【肥後国】より

…そしてその制圧によって肥後の近世化は一気に推進されることになる。【工藤 敬一】
【近世】

[所領配置]
 1588年佐々成政が国衆一揆の責を負って改易されたあと,肥後は上使衆によって検地(太閤検地)が行われ,ついで北部半国(9郡19万5000石)に加藤清正,南部半国(4郡14万6300石)に小西行長が封ぜられ,旧領を安堵された球磨郡(2万2100石)の相良長毎(ながつね)と3人で肥後国を三分することとなった。加藤清正は隈本(くまもと)城に入ったが,領内は国衆一揆で土豪層が排除されており,静謐(せいひつ)であった。…

【人吉藩】より

…肥後国(熊本県)人吉に藩庁を置いた外様小藩。藩主相良氏は鎌倉期に人吉荘の地頭職を得,戦国期には一時球磨,芦北,八代の3郡を領有したが,島津氏の勢力伸張に屈した。20代長毎(ながつね)は島津氏に属したが,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐時に下って球磨郡の旧領を安堵され,ついで関ヶ原の戦には東軍徳川方に内応して命脈を保った。長毎は人吉城の修築,城下町形成など藩政の確立に努めた。近世の人吉藩は球磨郡と日向の米良山を領し,椎葉山を管理した。…

※「相良長毎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android