日本大百科全書(ニッポニカ) 「シャルル」の意味・わかりやすい解説
シャルル(Jacques-Alexandre-César Charles)
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Jacques-Alexandre-César Charles
(1746―1823)
フランスの物理学者。ボージェンシー生まれ。初めパリで役人をしていた。33歳のときフランクリンに出会い、実験物理学の勉強を始めた。1782年以降、機械技師ロベール兄弟、兄アンヌ・ジャンAnne-Jean Robert(1758―1820)、弟ニコラ・ルイNicolas-Louis Robert(1761―1828)、とともに気球製作にとりかかり、当時、熱気球の研究をしていたモンゴルフィエ兄弟に対して、水素気球方式で開発を競い、1783年9月モンゴルフィエが成功し、シャルルらは同年12月1日、「40万人の群衆の前で」飛行に成功した。この成功により以後の気球は水素方式が主流となった。また気体の熱膨張に関する「シャルルの法則」でも知られる。「気体は一定圧力のもとでは温度に比例してその体積を増加する」というもので、1787年にみいだしたが、これはのちにゲイ・リュサックにより確立されたため、ゲイ・リュサックの法則ともいわれ、ボイルの法則とあわせ、ボイル‐シャルルの法則としても知られる。
[高山 進]
シャルル(7世)
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Charles Ⅶ
(1403―1461)
バロア朝第5代のフランス王(在位1422~1461)。母はバイエルン公家のイザボーIsabeau de Bavière(1371―1435)。兄2人が早世し、王太子号をとったが、1419年、アルマニャック派の陰謀に加担して、ブルゴーニュ公ジャンを殺害し、王太子号を奪われた。1420年トロア条約で、父シャルル6世はイングランド王家と和解し、1422年、父王の死後「イングランドとフランスの王」を名のる幼王ヘンリー(シャルルの姉カトリーヌCatherine of Valois(1401―1437)の子)が立った。北フランスはイングランド王家の軍勢と、その同盟者ブルゴーニュ公家の勢力下に置かれ、シャルルはロアール河畔に臨時政府をたてた。「ブールジュの痴(し)れ王」の伝説には根拠がなく、彼は冷静に反攻の機会をうかがっていた。ブルゴーニュ公フィリップ2世との和解がシャルルの戦略の要(かなめ)にあり、そのことは1435年アラスの和約に実現された。そこに至る過程に、ジャンヌ・ダルクの参加したオルレアンの戦い、ランスにおける戴冠(たいかん)が位置する。1436年、首都パリを回復したシャルルは、ノルマンディー、ギュイエンヌ方面でイングランド勢力に対処する一方、常備軍の整備、フランス教会の組織改革、政商ジャック・クールを登用しての財政改革など、王政の拡充に努めた。ブルゴーニュ、ブルターニュなど、なお残る大諸侯領への王権の浸透は、彼の代に準備された。王妃マリ・ダンジューの腹に生まれたルイがその仕事を仕上げることになる。1453年、ギエンヌ(ギュイエンヌ)を接収して、百年戦争に終止符を打った。
[堀越孝一 2023年1月19日]
シャルル(5世)
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Charles V
(1337―1380)
バロア朝第3代のフランス王(在位1364~80)。あだ名は賢王le Sage。王家の歴史を軸にフランス史を考える場合、彼は王政の組織者として特筆に値する。祖父フィリップ6世の治世末年と父ジャン(2世)の時代、フランス王政はいわば難破船であった。1356年ポアチエの戦いにイングランド王家の捕虜となった父王の名代として、エチエンヌ・マルセルの乱、ジャクリーの乱を収拾し、続いて60年、イングランド王家とブレチニー・カレーの和約を結んだ。アンジュー‐プランタジネット王家の旧大陸領土の返還の約束と引き換えに、エドワードにフランス王位請求権の放棄を認めさせたこの条約は、まさに「賢王」シャルルの外交的勝利であった。
1364年、虜囚の地で没した父王を継いだシャルルは、王政の立て直しを図った。財政における三大収税体系、すなわち、諸団体に課す一般税(タイユ)、都市の援助金(エード)、塩の専売収益(ガベル)を整備した。戦争会計を切り離し、不時の支出に備えて「王の金庫」を置き、下級身分から人材を登用し、王家官僚の系譜を後代に残した。封建家臣や親族に頼らず、専門家集団に王政をゆだねる発想であった。また、傭兵(ようへい)を主とする王の常備軍を編成し、下級身分から登用した将官ベルトラン・デュ・ゲクランBertrand Du Guesclin(1320?―80)にこれを預け、69年に再開された戦争において、失地の回復を図った。シャルルの改革は、封建王政を絶対王政につなぐものであったといえよう。加えて、首都パリの改造とルーブル宮の造営は、シャルルの王権理念の物的表象であった。
[堀越孝一]
シャルル(ブルゴーニュ公)
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Charles
(1433―1477)
バロア家系ブルゴーニュ公家第4代当主(1467~77)。母はポルトガル王女イサベル。父フィリップ公の晩年、フランス王家との関係はしだいに悪化したが、とりわけ1461年ルイ11世の登位が転回点となり、公家はアラスの和議で得たソンム川沿い諸都市の上級領主権を王家に収奪された。当時シャロレー伯であったシャルルは、ここに公家家政の実権者として頭角を現し、反王家路線を明白に打ち出すことになる。64年には、ルイ11世に反逆した諸侯の先頭にたち、パリ近郊で王軍と戦い、軍事的指導者としての名声を高めた(公益同盟戦争)。67年父公を継いでのち、72年の内戦に挫折(ざせつ)してからは、フランスの内政に対する関心を捨て、フランスとドイツとの間に独立国を建てる方向に決定的に歩み出す。アルザス、ロレーヌ、フリースラントと支配地を広げたところで、ドイツ神聖ローマ皇帝に対し「王号」を要求した。ルイ11世は、公家の独立を阻止しようと権謀術数の限りを尽くしてシャルル包囲陣をつくる。シャルルの頼んだイングランド王家もルイに買収され、スイスもルイの側について、孤立したシャルルは77年、ロレーヌ公のスイス人傭兵(ようへい)隊とナンシーに戦って敗死した。1457年、ブルボン家のイサベルの腹に生まれたひとり娘マリアは、ここに公家家督を相続し、フランドル、ネーデルラント諸邦の支持の下に、ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚し、公家をハプスブルク家に接木(つぎき)して、からくも公家北方領国を保全した。
[堀越孝一]
シャルル(6世)
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Charles Ⅵ
(1368―1422)
バロア朝第4代のフランス王(在位1380~1422)。1380年、父シャルル5世の急死後に即位した。4人の叔父が後見についた。1388年に親政に入ったが、4年後間欠的に狂気の発作をおこすようになり、後見政治が復活。とりわけ、叔父のバロア家系初代ブルゴーニュ公フィリップ、王弟オルレアン公ルイLouis d'Orléans(1372―1407)の権力闘争が激しく、バイエルン・インゴルシュタット公家出身の王妃イザボー・ド・バビエールIsabeau de Bavière(1371―1435)の存在も絡んで、政情は混迷し、アルマニャック派とブルゴーニュ派との抗争のうちに、1415年イングランド王ヘンリー5世の北フランス出兵をみる。政局は、ブルゴーニュ公の主導のうちに推移し、1420年トロア条約によりフランス王家はイングランド王家と和し、1422年、シャルル、ついでヘンリーの死後、両王家は合同した。王妃イザボーとの間に3男4女をもうけたが、男子2人は早世し、末息シャルルはアルマニャック派に加担して廃嫡され、ヘンリー5世に嫁した女子カトリーヌCatherine of Valois(1401―1437)が生んだヘンリーが家督を相続する形となった。
[堀越孝一 2023年1月19日]
シャルル(10世)
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Charles X
(1757―1836)
ブルボン朝第7代のフランス王(在位1824~30)。ルイ15世の王太子の第4子。ルイ16世、ルイ18世の弟にあたる。1789年、革命の勃発(ぼっぱつ)とともに亡命し、ヨーロッパ各地を転々とし、92年ユー島(フランス西部バンデー地方)からフランスに進入しようとして失敗。ナポレオン時代はイギリスに滞在した。第一次王政復古(1814)のとき、王国総代理官として連合国と軍事協約を結んだ。第二次王政復古では政務から遠ざかったが、極右王党派(ユルトラ)の勢力拡大に力を注いだ。1824年ルイ18世の死により王位を継承した。統治初期は、新聞検閲の廃止など自由主義的政策を打ち出したが、ビレール内閣の反動的諸立法(涜聖(とくせい)法、亡命貴族10億フラン法、国民衛兵の解散など)はシャルル10世の人気を落とし、自由主義ブルジョアの台頭を招いた。このため、彼は「七月勅令」を発布してブルジョアを政治から排除しようとしたが、かえってパリ市民の反抗を助長し、七月革命の勃発を招いて退位、イギリスへ亡命した。北イタリアのゴリツィアで死去。
[志垣嘉夫]
シャルル(8世)
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Charles Ⅷ
(1470―1498)
バロア朝第7代のフランス王(在位1483~98)。母はサボイア公女シャルロット。父ルイ11世は、幼少のシャルルを姉のアンヌの後見の下に置いた。アンヌは1491年、弟の妻にブルターニュ公女アンヌAnne de Bretagne(1477―1514)を迎え、ブルターニュ公領取得の下ごしらえをした。このころから若いシャルルは、イタリアのナポリ王国獲得を夢想し、アラゴン王家、オーストリア大公家等関係諸勢力に多大の譲歩をあえてして遠征を強行し、95年、ナポリ王国に進駐したが、オーストリア、アラゴンが警戒心を募らせ、結局、両者の干渉が彼の野望をくじいた。98年、再度遠征を企画中、アンボアーズ城内で事故死した。ここにバロア王家の直系が絶えた。
[堀越孝一]
シャルル(4世)
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Charles Ⅳ
(1294―1328)
カペー朝最後のフランス王(在位1322~28)。美王le Belといわれる。フィリップ4世の第3子で、兄フィリップ5世の後継者。財政と司法の再建に尽力。その治世はイギリスのプランタジネット家との緊張関係の強化によって特色づけられる。彼には世継ぎの男子がなく、その死とともに直系カペー朝は断絶する。新国王にはバロア朝のフィリップ6世(フィリップ4世の甥(おい))が選ばれるが、イギリス国王エドワード3世(フィリップ4世の娘イザベルとエドワード2世との子)は、これに異議を申し立てた。男系親による王位継承の原則は貫かれたものの、この事件は百年戦争を誘発する結果となった。
[井上泰男]
シャルル(9世)
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Charles Ⅸ
(1550―1574)
バロア朝第12代のフランス王(在位1560~74)。アンリ2世の子。兄フランソア2世の死により10歳で即位し、母后カトリーヌ・ド・メディシスの摂政。治世は宗教戦争前半期である。第三次宗教戦争を終結させたサン・ジェルマンの和議(1570)および妹のマルグリットとナバール王アンリ(後のアンリ4世)との結婚を通してカトリックとユグノーの平和共存を図ることを目ざしたが、母后やギーズ一門、反ユグノー運動の圧力に屈して、サン・バルテルミーの虐殺を断行した(1572年8月)。その後この事件を引き起こした責任と良心の呵責(かしゃく)に耐えかねて、消耗の果てにこの世を去った。
[志垣嘉夫]