相見庄・八幡庄
あいみのしよう・やわたのしよう
「和名抄」の会見郡会見郷および巨勢郷の地に成立したと推定される庄園。立庄の時期、領主等は不明。日野川流域の現米子市南部の八幡・東八幡・新庄から現岸本町西部にかけての一帯に比定される。建武五年(一三三八)六月二日の山名時氏寄進状(相見家文書)によれば、保田庄(現大山町か)のうち三谷村の地頭職が、守護時氏より「相見八幡」に寄進されている。この相見八幡は応安三年(一三七〇)三月二七日の山名時義寄進状(同文書)に「相見庄八幡宮」とみえている現東八幡にある八幡神社で、日野川の流路が西へ移る以前、中世には八幡に鎮座していたとされる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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