八幡庄(読み)やわたのしよう

日本歴史地名大系 「八幡庄」の解説

八幡庄
やわたのしよう

意宇平野に位置し、現松江市八幡町地域と推定される。山城石清水いわしみず八幡宮領で、平浜ひらはま八幡宮(平浜別宮)の管轄下に置かれた。建永元年(一二〇六)八月日の預所下文(青木家文書)によると、平浜別宮惣検校高義は下司秀信により石清水八幡宮へ訴えられたが、同社は「八幡庄」の名田を刈取って高義を追却したのは秀信の狼藉であるとして、高義に惣検校職を安堵するよう平浜別宮神人に命じている。正嘉二年(一二五八)一〇月一五日の郷司某下文(同文書)では平浜八幡宮領の八幡庄代官職に同社惣検校が補任されているが、郷司が庁宣の旨に任せて補任を行っていることから、郷司某は在庁官人とみられる。

観応元年(一三五〇)八月の北垣光政軍忠状(小野文書)によれば、北垣は佐陀次郎左衛門尉らとともに北朝方として佐陀さだ城に立籠り、同一四日に「八幡津」と森山もりやま(現美保関町)で合戦を行っており、当時の出雲守護佐々木道誉(京極道誉)の守護代吉田厳覚から着到・軍忠の証判を得ている。


八幡庄
やわたのしよう

現在の市川市八幡・南八幡を遺称地とし、庄域は同市域の北部(近世のいわゆる行徳領諸村を除いた地域)および現松戸市・鎌ヶ谷市の一部を含む地域に比定される。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に山城国石清水いわしみず八幡宮の別当寺極楽寺領として下総国「葛餝別宮」がみえる。同別宮は現在の葛飾かつしか八幡宮の前身で、当時は石清水八幡宮の末社であった。当庄はこの葛餝別宮の社領(石清水八幡宮領庄園としての意味をもっていた)が庄園化したものか。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に引く同年二月日の関東知行国乃貢未済庄々注文には下総国として八幡がみえるが、領主・地頭などの記載はない。


八幡庄
やわたのしよう

現多賀城市の八幡地区を中心に、南接する現仙台市の中野なかの蒲生がもう地区に及んでいた庄園。寛喜二年(一二三〇)八月日の平景衡譲状(伊勢結城文書)に「みちのくにやはたのうちうのかう」とみえ、陸奥介平景衡(かつひら・かけ実と両様に記す)が相伝の所領八幡庄のうち「うのかう」(蒲生郷)を娘つるいしに譲っている。蒲生郷の東は萩薗はぎのその、南は海、西は「きののまの」、北は中野であった。「御みや」の公事以外は免除されている点が留意される。蒲生郷は鶴石より夫那須資長に建長二年(一二五〇)七月に譲られたと思われる(文永元年一〇月一〇日「関東下知状」秋田藩家蔵文書)


八幡庄
はちまんのしよう

現長浜市街付近に比定され、山城石清水いわしみず八幡宮領細江ほそえ庄を継承した長浜八幡宮の神領と考えられる。庄域として古代坂田郡条里の五条一〇里、六条九里、七条六里・七里の地が確認できる。なお「源平盛衰記」巻三〇によると、寿永二年(一一八三)木曾義仲軍勢は「八幡の里」を経て京都に進軍している。正安三年(一三〇一)八月二四日の八幡庄地頭代源景清願文(紀伊九鬼文書)に「近江国坂田郡八幡庄」とみえ、地頭代景清は当庄住人鎌田源大炊左衛門尉源景清であった(同日「唯性引近江檀那願文案」熊野本宮文書)


八幡庄
やわたのしよう

現山梨市域の笛吹川沿いに比定される庄園。現大月市下和田の花井しもわだのかせい寺が所蔵する大般若経巻三〇四奥書に八幡庄とみえ、延文六年(一三六一)四月上旬、当庄不動堂において大般若経を書写している。現塩山市竹森たけもりの野尻倹之助氏所蔵の大般若経巻二三五奥書には、応安二年(一三六九)五月一一日に釈比丘衝悦が「山梨ママ八幡庄安田郷下井尻村延命禅寺」で書写したとある。


八幡庄
はちまんのしよう

八幡やわた町一帯を庄域としたとみられる庄園。やはた・やわたとよんだとも考えられる。「神明鏡」に「元弘三五月七日六波羅落ケル事ヲ不知ケル、上野国ヨリ五月五日新田小太郎義貞・義助一族卅余人、宣旨ヲ三度拝シ、笠懸ノ野辺打出、(中略)甲斐信濃源氏五千余騎ニテ、八幡庄ニテ馳付」とあり、挙兵した新田義貞軍勢と越後・信濃・甲斐勢力の合流点として八幡庄が記される。南北朝期以降上野国守護領として確認できるが、鎌倉期も同様であったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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