日本歴史地名大系 「矢筈村」の解説 矢筈村やはずむら 佐賀県:武雄市矢筈村[現在地名]武雄市西川登町神六(にしかわのぼりまちじんろく)字矢筈標高四四七メートルの神六山南面の中腹から山麓にある。正安元年(一二九九)九月四日の橘薩摩公義所領注文(小鹿島文書)に「一所 矢筈山」とある。この地域は平安時代後期は長島(ながしま)庄で蓮華王(れんげおう)院領。鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の領有となった。室町時代には塚崎(つかざき)庄に属し、塚崎後藤氏の所領となる。江戸時代は佐賀藩武雄領。伝えによれば、織田信長の家臣前田備前守利清が、主君が本能寺で殺されたため弓矢とる身のはかなさを感じ、この村に流れつき、持ってきた矢筈を納めて矢筈神社を創建、利清は黒髪(くろかみ)山で修行して僧侶となり、この村に住みついたという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by