石川喜三郎(読み)イシカワ キサブロウ

20世紀日本人名事典 「石川喜三郎」の解説

石川 喜三郎
イシカワ キサブロウ

明治〜昭和期の神学者 正教神学校教授。



生年
文久3年12月16日(1864年)

没年
昭和7(1932)年2月5日

出生地
陸奥国仙台(宮城県仙台市)

別名
号=残月,洗礼名=ペートル

学歴〔年〕
正教神学校卒

経歴
ロシア正教会ニコライが創立した正教神学校に学び、卒業後、正教会の機関誌「正教新報」(のち「正教時報」に改題)の主筆となる。主にキリスト教と日本国家・天皇制に関する問題に取り組み、明治24年に内村鑑三が起こした第一高等中学不敬事件を受けて25年日本国家に対するロシア正教会の見解を鮮明にすべく「正教と国家」を刊行。また教育勅語を巡って哲学者井上哲次郎がキリスト教批判を行ったのに反論し、キリスト教と忠君愛国とが互いに相容れるものであることを主張した。その他、母校の正教神学校教授を務め、学術論文も多数執筆。大正6年日本軍のシベリア出兵に際して戦地を訪れ、ロシア人正教徒たちを慰撫した。著書は他に「日本正教伝道誌」「羅馬教弁妄論」「正教と現代思想」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「石川喜三郎」の解説

石川喜三郎

没年:昭和7.2.5(1932)
生年:文久3.12.16(1864.1.24)
明治・大正・昭和初期のキリスト教(ロシア正教会)の神学者。仙台生まれ。ニコライが設けた正教神学校で学ぶ。正教会の機関誌『正教新報』(のち『正教時報』)主筆。学術論文を掲載した『心海』(1893.9~1899.6)にも,論文を発表する。明治25(1892)年4月「日本の国家に対する吾人基督正教信徒の見解」を公にするため『正教と国家』を出版する。本書前年の「第一高等中学不敬事件」に対して正教会の立場を弁明したものである。さらに,教育勅語をめぐる井上哲次郎の「教育ト宗教ノ衝突」に対しても,井上のキリスト教理解の浅薄なことを批判し,キリスト教が忠君愛国に反しないことを主張する。キリスト教と天皇制の問題に取り組んだ日本正教会の理論的指導者。<著作>『正教と帝王及国家』<参考文献>長縄光男『ニコライ堂の人びと―日本近代史の中のロシア正教会』

(原島正)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石川喜三郎」の解説

石川喜三郎 いしかわ-きさぶろう

1864*-1932 明治-昭和時代前期の神学者。
文久3年12月16日生まれ。正教会機関誌「正教新報」(のち「正教時報」)主筆。母校正教神学校教授。国家とキリスト教の問題にとりくんだ日本正教会の理論的指導者として知られ,井上哲次郎との論争は有名。昭和7年2月5日死去。70歳。陸奥(むつ)(宮城県)出身。著作に「正教と現代思想」など。

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