磯野村(読み)いそのむら

日本歴史地名大系 「磯野村」の解説

磯野村
いそのむら

[現在地名]高月町磯野

東柳野ひがしやないの村の西に位置し、東部は余呉よご川左岸の低丘と平地、西部は同川右岸・しずたけ山系磯野山麓の山地。集落内をあか川が南流する。元亀元年(一五七〇)浅井氏を攻める織田信長は、磯野郷に至り丹羽長秀らに対面(信長公記)。同三年加藤光泰は戦功により磯野村で七〇〇石を与えられたという(加藤光泰同貞泰軍功記)。天正一三年(一五八五)閏八月の山内一豊知行目録(山内文書)に「百六拾五石 磯野」とみえ一豊領。慶長七年(一六〇二)検地では田四八町八反余・畑二町九反余・木原一畝余。延宝七年(一六七九)の検地では田五二町二反余・高七五五石余、畑三町四反余・高三八石余、屋敷三町三反余・高四五石余(以上「伊香郡志」)


磯野村
いそのむら

[現在地名]常北町磯野

藤井ふじい川が村の南を東流し、東は増井ましい村。村の中央を石塚いしつか村から宍戸ししど(現西茨城郡友部町)への街道が通る。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)には「礒野村」と記され、天保郷帳に「磯野村」とある。「水府志料」によると村の東西六町余・南北一五町余、戸数およそ三九、「人家は東西五町ほどの間に山を後にし、南に向ひ散在す。地形平にして渓谷なし」と記される。

村域内に鹿島神社がある。社伝によると、かつて下古内しもふるうち村および当村内に大化三年(六四七)創建と伝える熊野・金刀比羅ことひら・稲荷三社があり、これらを明和三年(一七六六)現在の社地に合祀し、武甕槌命を加えて鹿島神社と称したという。除地二石余を有した。旧村社。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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