東城郡(読み)ひがしいばらきぐん

日本歴史地名大系 「東城郡」の解説

城郡
ひがしいばらきぐん

面積:四八一・一五平方キロ
御前山ごぜんやま村・かつら村・常北じようほく町・常澄つねずみ村・大洗おおあらい町・内原うちはら町・茨城いばらき町・美野里みのり町・小川おがわ

県中央部の那珂川南流域にあり、水戸市を挟み西北に御前山村・桂村・常北町、南東に他の五町一村が分れた形で本郡を形成する。郡西北部は八溝やみぞ山系の山地と那珂川流域の河岸段丘よりなり、西は北から栃木県・西茨城郡七会ななかい村・笠間市、東南は水戸市と接し、北から東はほぼ那珂川を境として那珂郡に対する。郡南東部は関東平野東北部の平地で、東北は太平洋に臨み、北は那珂川を間に水戸・勝田・那珂湊の三市と対し、中央部を涸沼ひぬま川が東流して涸沼に注ぐ。西は西茨城郡、東南は鹿島郡に接し、西南は園部そのべ川で石岡市・新治にいはり郡と境する。郡の中央に水戸市があるため、国道六号(旧水戸街道)・五〇号(旧結城街道)・五一号(旧飯沼街道)・一二三号(旧那須街道)などが郡内を縦横に通じる。

本郡は「常陸国風土記」にみえる「茨城郡」の地域よりは北に位置し、同書にある「那賀郡」の大部分と「茨城郡」「香島郡」の一部の地域にあたる。すなわち「和名抄」にみえる茨城郡の嶋田・生国(生園の誤記か)・田余・白川・安侯・立花の各郷、鹿島郡の宮田郷、那賀なか郡の入野・安賀・日下部・志万・阿波・芳賀・石上・鹿嶋・茨城・洗井・那珂・八部の各郷の一部または全部が現東茨城郡にあたるといわれる。これらの地域は文禄年間(一五九二―九六)太閤検地で茨城郡となった(新編常陸国誌)

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡では常澄村大串おおくし貝塚(国指定史跡)大洗町吹上ふきあげ貝塚などが知られる。弥生時代では成立期の桂村北方きたかた遺跡、後期の茨城町長岡ながおか遺跡、大洗町ひいがま遺跡・長峰ながみね遺跡などが知られる。後期では集落の発生を示す遺跡・住居跡が発見されており、弥生時代後期の三世紀頃には農耕文化が展開、五世紀から六世紀前半には大和朝廷の支配下に入ったと推定される。この頃常陸地方にあった国のうち、水戸およびその周辺は那賀国に属し、水戸市愛宕あたご町の愛宕山古墳は那珂(仲)国造(建借間命)の墓と伝える。那珂国造の勢力は現在の桂村・御前山村辺りを北限とし、東は勝田市・那珂湊市、南は大洗町から鹿島・行方なめがた両郡、西は内原町辺りまで及んだようである。六世紀中頃以降八世紀前半にかけての築造とみられる内原町の牛伏うしぶし古墳群を建借間命以後の那珂国造家累代の墓とする説(水戸市史)がある。

大化改新による国郡里制の制定に伴い、本郡は那賀郡の大部分と茨城郡・香(鹿)島郡の一部を含むことになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報