神辺城跡(読み)かんなべじようあと

日本歴史地名大系 「神辺城跡」の解説

神辺城跡
かんなべじようあと

[現在地名]神辺町川北・川南

川北かわきた川南かわみなみの境を形成する古城こじよう(紅葉山)にあり、村尾むらお城・深津ふかつ城などともよばれ、「陰徳太平記」には神辺みちうえ城、「西備名区」に楓山かえでやま城、「福山志料」に紅葉山こうようざん城とある。標高約一二〇メートル、麓からの比高約一一〇メートルで神辺平野を一望できる要所に位置する。

〔城の変遷〕

備後守護となった朝山景連が建武二年(一三三五)守護所を神辺におき、同年築城したのが始まりとされる(備後古城記、福山志料)。以後山名氏・杉原氏らが城主として在城。「備後古城記」に「山名近江入道丈休嘉吉三年八月四日城ヲ再築ク」とあり、山名氏の一族で守護代をつとめた犬橋満泰により嘉吉三年(一四四三)再築されたようである。

天文七年(一五三八)大内義隆銀山ぎんざん(跡地は現福山市)城主杉原理興に尼子方の山名忠勝のいる当城を攻撃させ、代わって理興を城主にした(三備史略)。ここに備後生え抜きの在地領主杉原氏が当城に拠って大内氏と結んで備後南部を支配することとなる(「閥閲録」所収杉原与三右衛門家文書)。理興は山名氏を名乗り(「福山志料」所載吉備津神社鐘銘)、城の修築をし、古市ふるいち七日市なぬかいちを含めた城下町を形成したと考えられる。天文一二年理興は尼子方に寝返り、以後同一八年城を脱出するまで、大内氏(毛利氏)による神辺城攻めが行われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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