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福島正則 ふくしま まさのり

美術人名辞典の解説

福島正則

安土桃山・江戸前期の武将尾張生。福島市兵衛正信の長男。幼名市松、通称は左衛門大夫、号は高斎、法号は海福寺月翁正印大居士。幼時より秀吉に仕え、山崎の戦、賤ヶ岳の戦等において数々の軍功を挙げ尾張清洲城主となる。関ヶ原の戦では東軍に属して戦い、家康より安芸・備後二カ国を与えられ広島城主となるが、元和5年(1619)、広島城無断修築の咎により信濃高井郡高井野邑に蟄居。寛永元年(1624)歿、64才。

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デジタル大辞泉の解説

ふくしま‐まさのり【福島正則】

[1561~1624]安土桃山・江戸初期の武将。尾張の人。幼少時から豊臣秀吉に従い各地を歴戦賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは七本槍筆頭として活躍。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、安芸(あき)広島城主となったが、城の修築でとがめられ所領没収、信濃に移された。

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百科事典マイペディアの解説

福島正則【ふくしままさのり】

安土桃山時代の武将。幼少より豊臣秀吉に仕え,賤ヶ岳の戦では七本槍の筆頭。文禄の役で渡鮮後,1595年尾張清洲(きよす)で24万石を領した。関ヶ原の戦で東軍に属し,功により安芸(あき),備後(びんご)で49万石を授けられたが,1619年広島城修築をとがめられ所領没収,不遇のうちに信濃(しなの)で死んだ。
→関連項目清洲城広島藩福山藩

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

福島正則 ふくしま-まさのり

1561-1624 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)4年生まれ。福島正信(まさのぶ)の長男。豊臣秀吉につかえ,賤ケ岳(しずがたけ)の戦い(七本槍のひとり),小牧・長久手(ながくて)の戦い,朝鮮出兵などで活躍。文禄4年尾張(おわり)清洲城主となる。関ケ原の戦いでは徳川方につき,安芸(あき)広島藩主。49万8000石。広島城の無断修築をとがめられて領地没収となり,元和(げんな)5年信濃(しなの)川中島4万5000石にうつされ,高井野に蟄居(ちっきょ)した。寛永元年7月13日死去。64歳。幼名は市松。通称は左衛門大夫(さえもんのたいふ)。号は高斎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

福島正則

没年:寛永1.7.13(1624.8.26)
生年:永禄4(1561)
安土桃山・江戸前期の武将。幼名は市松,左衛門大夫と称する。尾張の人,福島市兵衛正信の長男。母は豊臣秀吉の伯母木下氏。勇猛果敢にして,天正6(1578)年以来,豊臣秀吉に従って各地に歴戦し軍功をあげた。11年4月の賤ケ岳の戦では「賤ケ岳の七本槍」の第一の勇名を馳せた。13年に伊予今治10万石に封ぜられ,島津征伐,小田原の役,朝鮮出兵などに従い,文禄4(1595)年には尾張清洲城に移って24万石を領した。慶長5(1600)年の会津征討には,徳川家康の指揮の下に豊臣武将たちと共に従軍していたが,石田三成挙兵の報を受けて開かれた小山の評定では率先して発言し,豊臣武将をまとめて家康の味方とした。関ケ原の戦では先鋒第一番手として西軍主力の宇喜多秀家隊と交戦するなど,東軍勝利に大きな貢献をなした。戦後は毛利氏の居城であった広島城を賜わり安芸・備後2カ国49万8000石を給された。大坂城の豊臣秀頼に対してはなお忠誠を尽くしたが,加藤清正,浅野幸長らの僚友が物故する中で力を失い,大坂の陣に際しては家康から江戸屋敷に留めおかれた。元和3(1617)年に従四位下参議叙任。5年,広島城で行った無断修築の件を武家諸法度違反として幕府より咎められた。幕府年寄の本多正純らは広島城の部分破却による穏便な解決を目指したが,この宥免条件は福島側によって十分には履行されず,事態を知った将軍徳川秀忠の厳命により正則の改易が執行された。正則は出家して高斎と号し,信州川中島4万5000石に移されて高井野村に蟄居していたが寛永1(1624)年に病没した。しかも幕府の検使堀田正利の到着以前に遺骸が火葬に付されたことをもって封は没収された。<参考文献>田部井鉚太郎『福島正則伝』,笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』

(笠谷和比古)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふくしままさのり【福島正則】

1561‐1624(永禄4‐寛永1)
安土桃山~江戸初期の大名。幼名市松,左衛門大夫,清須侍従と称し,高斎と号す。尾張国二ッ寺村(愛知県美和町)に出生。父は市兵衛正信,母は豊臣秀吉の伯母という。俗書桶屋の子と伝えるが確証はない。1578年(天正6)秀吉に仕え,82年播磨神東郡内で300石を加増され,翌年賤ヶ岳の戦に〈七本槍〉の筆頭として活躍,他の面々が3000石であるのに別格の5000石の加増をうけた。85年紀伊雑賀攻撃で和泉畠中城攻めに功をたて,一躍,伊予で10万石を領して秀吉子飼いの大名となり今治に居城,従五位下左衛門尉に叙任した。

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大辞林 第三版の解説

ふくしままさのり【福島正則】

1561~1624) 安土桃山・江戸初期の武将。尾張の人。幼名、市松。幼少から豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の筆頭となった。1595年、尾張清洲二四万石城主。関ヶ原の戦いでは徳川方先鋒。戦後、安芸広島五〇万石の城主。のち城修築の件で所領を没収され信濃に蟄居ちつきよ、病死した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

福島正則
ふくしままさのり

[生]永禄4(1561).尾張
[没]寛永1(1624).7.13. 信濃
安土桃山~江戸時代初期の武将。正信の子。幼名,市松。剃髪して高斎と号した。幼時から豊臣秀吉に仕え,天正6 (1578) 年播磨三木城攻略に従い,同 11年賤ヶ岳に柴田勝家と戦い,賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。同 13年伊予今治城主となり,従五位下,左衛門尉に叙任。九州征伐,小田原征伐,文禄・慶長の役にも従軍。文禄4 (95) 年尾張清洲城主となり,慶長2 (97) 年侍従に叙せられ,羽柴の姓を受けた。関ヶ原の戦いには東軍に属し,戦後,安芸広島 49万石余となった。大坂の陣後,元和3 (1617) 年従四位下,参議に進み,同5年無断で広島城を改築したかどで封を奪われ,信濃川中島に流され,同高井郡に蟄居して死去した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

福島正則
ふくしままさのり
(1561―1624)

安土(あづち)桃山時代の武将。永禄(えいろく)4年尾張(おわり)国海東郡二寺(ふたつでら)村(愛知県あま市)に生まれる。幼名市松。父は正信(市兵衛)、母は豊臣(とよとみ)秀吉の叔母木下氏という。家業は桶(おけ)屋であったともいう。幼少より秀吉に近侍。1578年(天正6)秀吉の小姓衆として播磨(はりま)国(兵庫県)三木(みき)城攻略に従軍、初めて功名をあげた。その後も秀吉の旗下として山崎の合戦、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(1583年、七本槍(やり)の一人、5000石の物頭(ものがしら)となる)、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の合戦などで武名をとどろかす。1585年従(じゅ)五位下左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられ、以後左衛門大夫正則と名のる。1587年秀吉の九州征服に従い、同年伊予国(愛媛県)において11万石を領し、湯築(ゆづき)城(松山市)に入る。のち国分(こくぶ)城(国府(こくふ)城、今治(いまばり)市)に移る。その後小田原征伐、朝鮮出兵などに従軍。1595年(文禄4)尾張国清須(清洲)(きよす)24万石に転じた。関ヶ原の戦いには徳川家康に味方し戦功をたて、安芸(あき)・備後(びんご)両国49万8000石の大名となり広島城に入る。その後広島城の修築を無断で行ったとして1619年(元和5)改易され、信濃(しなの)・越後(えちご)国内で4万5000石を与えられ、高井野(長野県上高井郡高山村)に蟄居(ちっきょ)した。翌年、子忠勝(ただかつ)の死により越後の2万5000石を返上。『徳川実紀』には資性強暴、悪業を行い大名として失格者、そのうえ反逆のうわさがあると記されているから、そこらに改易の真意があったといえよう。広島城主などとしての政治経済・文化政策からみると、実際の正則は能力のある優れた人物であったことが推察される。寛永(かんえい)元年7月高井野で没した。このとき幕府検使の到着前に遺骸(いがい)を荼毘(だび)に付したため、遺領は収公、廃藩となった。墓は京都妙心寺塔頭(たっちゅう)海福院に、霊廟(れいびょう)は岩松院(がんしょういん)(上高井郡小布施(おぶせ)町雁田(かりた))に、屋敷跡(県史跡)は高山村にある。[青野春水]
『『広島県史 近世1』(1981・広島県)』

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世界大百科事典内の福島正則の言及

【安芸国】より

…しかし国内には大友・尼子の旧臣や国衆など,毛利氏に臣従しながらも独自の所領支配を温存する者が多く,領国経営の近世化は進まなかった。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で大坂城に入った罪を問われた輝元は,防長2ヵ国に削封されて広島を去り,そのあと芸備両国の大守として広島城に入るのは福島正則である。正則は翌01年,太閤検地の基準による領内の総検地を実施して石高制を確立した。…

【尾張国】より

…93年の事業はいずれも秀吉の指図により,検地高57万1737石といわれる。95年秀次死後,福島正則が清須城主24万石に,石川貞清が犬山城主1万2000石に封ぜられた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,家康は正則を安芸国広島に,直盛を伊勢神戸(かんべ)に転封。…

【関ヶ原の戦】より

… 99年正月に入ると,五大老,五奉行内部の対立がしだいに表面化してきた。正月19日,家康を除く大老と五奉行は,家康が伊達政宗,福島正則,蜂須賀家政らと婚姻を予約したことを,秀吉の遺言違反として難詰した。この事件は家康と4大老,五奉行が遺言遵守の誓書を交換して収まったかに見えたが,閏3月3日利家の死をきっかけに細川忠興,蜂須賀家政,福島正則,藤堂高虎,黒田長政,加藤清正,浅野幸長らの7大名が三成を襲い,三成は大坂を脱出して伏見に逃れ,家康の軍勢に守られて居城の佐和山に帰るという事件が起きた。…

【鞆】より

…なお,これまで鞆では遺跡・遺物が確認されていなかったが,最近の発掘調査によって現市街地下に良好な状態で遺跡が存在していることが判明した。【志田原 重人】
[近世の鞆町]
 鞆は元来,平・原両村に属していたが,1601年(慶長6)福島正則の検地をうけ,町方の鞆町と村方の後地(うしろじ)村とに分離した。石高は鞆町310石余,後地村153石余,1700年(元禄13)の幕府検地では鞆町208石余,後地村428石余に変更された。…

【広島[市]】より

…毛利時代は,枝状に分かれた太田川本・支流と,平田屋川・西堂川(せいとうがわ)両運河に堤防を築き,大規模な城郭を中心として周辺に広く武家屋敷を配置し,町人町は城郭の南西に区画したが,皮屋・材木両町のほかは町名も明らかでない。しかし,1600年(慶長5)福島正則の入城とともに,近世城下町として急速に整備される。 福島正則は城下東端の岩鼻(いわのはな),西郊の佐西郡草津村,および比治山近傍の3ヵ所に大門を設けて町在の境と定めるとともに,武家町を大幅に縮小して,職人・商人町の拡大をはかり,領国経済の要の役割を果たさせようとした。…

【広島藩】より

毛利輝元が1589年(天正17)太田川河口デルタの地を広島と命名して築城に着手,翌々年吉田郡山城からここに移り,中国地方9ヵ国にまたがる大領国を支配する拠点と定めたのがその起りである。関ヶ原の戦後,毛利氏が周防,長門2国に削封されて去ったあと,広島城に入ったのは安芸,備後両国を領した福島正則である。福島氏は1601年(慶長6)検地を行い,さらに新開造成も加わり,毛利時代には両国で40万石余であったのが52万石余に増加し,17年(元和3)将軍徳川秀忠の朱印状では49万8000余石とある。…

【備後国】より

…【松岡 久人】
【近世】

[藩領の成立と推移]
 豊臣政権のもとでも中国地方9ヵ国を領有した毛利輝元は,1600年(慶長5)関ヶ原の戦に敗北し,防長両国へ移封された。芸備両国へは福島正則が入封して広島藩万石が成立し,幕藩体制が強力に推進された。正則は領国経営のため,広島のほか備後の三原,鞆,三次,東城,神辺の各地に家臣団を配置して支配を固めるとともに,翌01年領内に太閤検地の原則に基づく惣検地を実施し,惣百姓(名請百姓)による年貢村請(むらうけ)制を実現した。…

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