川北村(読み)かわぎたむら

日本歴史地名大系 「川北村」の解説

川北村
かわぎたむら

[現在地名]庄原市川北町

恵蘇えそ郡の南東、西城さいじよう川支流の川北川流域に位置し、東は奴可ぬかくり(現比婆郡西城町)三上みかみ川西かわにし村、南は川手かわて村に接する。村名は西城川北側に位置することによると思われる。文応二年(一二六一)二月二八日付の千光寺領備後地庄本郷内領家職田数目録案(山内首藤家文書)に「嵯峨千光寺領備後国地本郷内上原・下原・河北・伊与・森脇・多気七ケ村領家職田数目録」とあり「河北」としてあらわれる。

川北川東岸に久井田さいだ古墳、富田とみた古墳群などがあり、早くから開発の進められた地であったらしい。また村内北の勝光しようこう山は近郷中の高山で山容も整い、平安時代には山岳仏教の霊場として栄え、寺院も一二坊があったという(芸藩通志)


川北村
かわきたむら

[現在地名]根占町川北

現根占町の北端、西流する川の北岸に位置し、対岸は川南かわみなみ村、西は海に面する。浦としてまち浜があり、雄川の河口に川南村にまたがる根占湊が形成され、小根占こねじめ郷の地頭仮屋が置かれていた。文政七年(一八二四)の小根占名勝志(県立図書館蔵)によると、元和三年(一六一七)小根占村が川北村・川南村・横別府よこべつぷ村に分村したというが、天保郷帳などでは小根占村として一括されている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に小根占村がみえ、高二千七〇七石余。「三州御治世要覧」に川北村がみえ、延享(一七四四―四八)頃の高三千二六一石余。旧高旧領取調帳では高三千二五二石余。享保一一年(一七二六)の検地名寄帳(原口虎雄筆写本)によれば、田八八町余・畑三二八町一反余・屋敷二三町四反余、合籾大豆は八千五九一俵余(うち籾六千一五八俵一斗余・大豆二千四三〇俵二斗余・上木籾一俵三斗余)で高にして三千一三二石余、門数は八九。


川北村
かわきたむら

[現在地名]えびの市東川北ひがしかわきた

西郷さいごう村の北、川内せんだい川北岸にある。東は榎田えのきだ村、西は馬関田まんがた郷の川北村。西方を川内川支流せき川が南流、北は加久藤かくとう(国見山)へと連なる。肥後街道の小田おだから榎田―徳満とくみつ城跡を経て馬関田郷の地頭館のある川北(現西川北)に着き、水流つるの天満宮から内竪うちたてを通って松尾まつお城跡の手前を左に折れ、梅木うめき岡松おかまつを経て大隅国吉松よしまつ(現鹿児島県吉松町)へ至る川内川北側の道を川北筋とよんだといわれる(えびの市史)。慶長五年(一六〇〇)一月二一日「加久藤 川北村之内」の高四八石余の本領などが白鳥山金剛乗院光厳に諸役免除して宛行われた(「島津忠恒領知目録」旧記雑録)。同一九年には「加久藤郷西郷川北村之内」高四石の浮免などが豊前坊に与えられている(「町田久幸外三名連署知行目録」同書)


川北村
かわきたむら

[現在地名]安芸市川北

安芸川と伊尾木いおき川に挟まれた沖積平野北部に位置する。南の松田島まつだじま村、北西の横山よこやま江川えがわの両村は川北村枝郷とされる。中世は伊尾木川流域の村々とともに有井ありい庄に含まれていたが、古くは沖積平野の大部分が海であったともいわれ、近世も新田開発の最も盛んに行われた地の一つであった。天正一七年(一五八九)の長宗我部地検帳は、枝郷を含めて「安喜郡川北江川・横山御地検帳」と題されて一冊にまとめられているが、「虫喰ノ為メ集算出来不申事」という後の貼紙があるように総地高の集計はできない。河口付近は松田島を含めてまだ島とよんだほうがふさわしい状態であったらしく、清殿せいとの島・重包しげかね島・みなみ島・タナカ島などの地名がみえる。


川北村
かわきたむら

[現在地名]菱刈町川北

馬越まこし徳辺とくべ村の南、南東から北西へ流れる川内せんだい川流域にある。東は栗野くりの稲葉崎いなばざき(現栗野町)、南は川内川を挟んで湯之尾ゆのお川南かわみなみ村、北は馬越郷前目まえめ村。応永一八年(一四一一)八月一〇日の菱刈院地頭職知行所注文写(篠原文書)に篠原豊前守入道知行所としてみえる「平沢津留上下歩」は、当地南東端の平沢津ひらそうづであろうか。近世には湯之尾郷の麓村で、中央の川内川に面した高台に湯之尾城(水天ヶ城)跡があり、その南方に地頭仮屋が置かれ(現湯之尾小学校敷地)、その一帯に麓集落が形成されていた。元和六年(一六二〇)には河北村徳右衛門の上田一反余(分米八俵余)・下ノ水流の下畠一反余(大ツ一俵)・八反田の中田一反余(籾一俵余)・彦川の上田七畝余(籾四升余)を含む高一二石が村田源之丞に宛行われている(「知行名寄目録」村田文書)


川北村
かわきたむら

[現在地名]神辺町川北

古城こじよう山の北・東側を村域とし、村中を高屋たかや川が流れ、近世には山陽道が通る。西南の川南村にかけて神辺宿の町並が続き、当地に本陣があった。「備後郡村誌」は「山五合田畑五合村ニ御座候、但旱損所」と記す。

建久二年(一一九一)一〇月日付の長講堂所領注文(島田文書)に河北庄がみえ、記載の順序から所在は備後国と推定される。この河北庄を当地のこととする説(神辺町史ほか)があるが確証はない。「神辺町史」は貞治二年(一三六三)の記録(三島毅氏蔵文書)に「神辺川北庄」とみえることから可能性を推定しているが分明でない。直接的関係性はないが当地には領家りようけという地名が伝わる。


川北村
かわぎたむら

[現在地名]福知山市字川北

由良川右岸、福知山城下の東北に位置し、村中を東西に高浜街道が通る。北にはからすヶ岳(五三六・五メートル)がそびえ、その南方の山稜が南へ下って、旧洪積台地となり、四つの谷に開析されている。東は高竜寺こうりゆうじ山を隔て私市きさいち村、北は印内いんない峠を越えて印内村、西は猪崎いざき村、南は由良川を隔てて前田まえだ村・つち村に対する。由良川に近い所は、連年のように洪水時には冠水する。


川北村
かわきたむら

[現在地名]芦辺町深江ふかえ 本村触ほんむらふれ

深江村の北東に位置する。地内の日吉山王権現(現兵主神社)は「延喜式」神名帳に記される壱岐郡一二座の一つ「兵主神社」に比定される(「一宮巡詣記」「壱岐神社誌」など)。貞観元年(八五九)「兵主神」は従五位上となっている(「三代実録」同年正月二七日条)。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)では西間の老松さいまのおいまつ天神(現石田町)の神領九四町のうちとして河北村とみえ、同じく田原たばる村とあるのは地内の田原免に比定される。


川北村
かわぎたむら

[現在地名]菰野町川北

海蔵かいぞう川の北岸、諏訪すわ村の東に位置する。本村と属邑野添のぞえに分れる。野添は正保三年(一六四六)萱生かよう(現四日市市)から移住してきた進士家が開発したと伝える(進士家由緒書)。「川北村誌」によれば、慶長八年(一六〇三)幕府領となり、その後正徳四年(一七一四)に本村は上総五井(現市原市)藩領、野添は長島藩領、さらに後者は天保二年(一八三一)に武蔵おし(現行田市)藩領、同一三年末に再び幕府領、安政元年(一八五四)より明治維新までまた忍藩領と領主がめまぐるしく交替した。


川北村
かわきたむら

[現在地名]えびの市西川北にしかわきた

加久藤かくとう郷の川北村の西、川内せんだい川北岸にある。同川支流天神てんじん川が南流し、北部は矢岳やたけ高原へと連なる。江戸時代には馬関田まんがた郷の麓村で地頭館(現中水流)が置かれていた。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳にはひがし村とみえ表高五一九石余、日向国覚書・元禄国絵図・天保郷帳でも同村名・同高となっており、幕府提出の郷帳類では東村として扱われている。なお元禄国絵図はほかに「東村之内馬関田村」を記す。


川北村
かわきたむら

[現在地名]津市大里川北おおざとかわきた

今井谷いまいだに村の北西に位置し、丘陵の裾および山中に集落をなす。村域の南を流れる志登茂しとも川が南の窪田くぼた村との境をなす。中世、当地に長野工藤氏の一族川北式部少輔が築城して住んだ(五鈴遺響)が、正平年中(一三四六―七〇)に土岐右馬頭に攻められ落城した。川北氏は安濃あのう雲林院うじい氏のもとに敗走し、内匠助の代に当村に帰住した(伊勢名勝志)との伝承がある。

元和元年(一六一五)以後津藩領、寛文九年(一六六九)の久居藩成立に伴い、当村は久居藩領となった。寛延(一七四八―五一)頃の「宗国史」は戸数六五、ほかに郷士一、人口二九八、馬二、牛八。


川北村
かわぎたむら

[現在地名]嬉野町川北

雲出くもず川と三渡みわたり川に挟まれた平野部に位置し、野田のだ村の南東にあたる。西方に古墳時代前期の前方後方墳西山にしやま古墳がある独立丘陵を望む。河北とも書く。天正一二年(一五八四)一一月一三日の小倉実隆知行宛行状(野矢文書)に「三拾石 川北」とみえ、「野矢(忠カ)兵衛尉」に当地分三〇石を領知せしめている。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「川北之郷」とみえ、石高一一一四・二六石とある。江戸時代は和歌山藩松坂領で、下ノ庄組に属した。慶安郷帳(明大刑博蔵)には河北村とあり、田八一八・四四八石、畑二九五・八一二石で、芝野があった。


川北村
かわきたむら

[現在地名]霧島町川北

南西流する霧島川の右岸にある。対岸は曾於郡そのこおり大窪おおくぼ村、北はおどり持松もちまつ(現牧園町)。河北とも記される。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には曾於その郡の項に川北五町とある。大永元年(一五二一)樺山長久は本領としていた日向野々美谷ののみたに(現宮崎県都城市)に代わり河北などを島津忠兼(勝久)から与えられた(樺山氏系図)。その後同五年までの間に本田親尚が曾於郡へ勢力を伸ばし、河北等は樺山氏領から本田氏領となった(「樺山玄佐自記」「島津国史」など)


川北村
かわきたむら

[現在地名]四日市市川北一―三丁目・川北町・松寺まつでら三丁目・蒔田まきた四丁目

朝明あさけ川の南平地にあり、南は西富田にしとみだ村。東を東海道が走る。江戸時代初めは桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領。

宝永八年(一七一一)の村指出帳(徳川林政史蔵)では戸数三六、人数一七〇(男八三・女八七)、牛三。神社は山神・神明。寺院は法従ほうじゆう(浄土真宗本願寺派)。助馬金として金一分と銀二匁三分五厘、馬にして一疋八厘四毛分を出している。延享二年(一七四五)の戸数は二二、うち高持一六・無高六。人数は男七四・女七八の計一五二。本田畑のほか二町余の「朝明川新起」と五反余の新田畑がある(「定法覚」四日市市立図書館蔵天春家文書)


川北村
かわぎたむら

[現在地名]篠山市川北

黒田くろだ村の東に位置し、南部を篠山川が流れる。地内につぼ・十ノ坪やエベスなどの地名が残されている。中世は河北保などとみえる。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「川北村」とみえ、高六八二石余。正保郷帳では田高六三四石余・畠高四八石。元禄郷帳では高六八三石余。「丹波志」では河内かわち郷のうちで、高三九〇石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では高屋組のうちで、高三九〇石余、家数五七・人数二八七。


川北村
かわぎたむら

[現在地名]作東町川北

吉野よしの川を挟んではら村の北に位置。出雲往来筋に立地する。正保郷帳に河北村とみえ、田二五四石余・畑一四二石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高六七石余・開高一四石余、村位は中。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は蓮花寺れんげじ村と同様。「東作誌」によれば天正年中(一五七三―九二)村の北方のとうげ村・南海なんがい村を分村したという。


川北村
かわきたむら

[現在地名]大野町田代たしろ 川北

河南かわみなみ村の北、田代川北東岸にある。正保郷帳に河北村とみえ、田高一二二石余・畑高九八石余、一万田いちまんだ郷に属した。旧高旧領取調帳では高二八二石余。安永七年(一七七八)には田代組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


川北村
かわきたむら

[現在地名]八開村川北

東は佐屋さや川を境にして鵜多須うたす村、西は神明津しんみようづ(現中島郡)に接する佐屋川沿いの小村。「徇行記」によれば、概高一五八石余は一円蔵入地。田は三町八反六畝余、畑は一一町六反九畝余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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