福島城下(読み)ふくしまじようか

日本歴史地名大系 「福島城下」の解説

福島城下
ふくしまじようか

[現在地名]福島市杉妻町すぎつまちよう舟場町ふなばちよう柳町やなぎまち荒町あらまち中町なかまち本町もとまち大町おおまち上町うわまち北町きたまち豊田町とよだまち御倉町おぐらちよう清明町せいめいちよう五月町さつきちよう早稲町わせちよう栄町さかえまち仲間町ちゆうげんちよう新町しんまち宮町みやまち置賜町おきたまちよう陣場町じんばちよう三河北町みかわきたまち三河南町みかわみなみまち太田町おおたまち矢剣町やつるぎちよう須川町すかわちよう公事田くじでん

阿武隈川左岸、同川と荒川(須川)の合流点北側に位置。近世初期蒲生氏、上杉氏(米沢藩)支城とされ、のち本多氏・堀田氏・板倉氏が拠った福島城の城下町。福島城の西側から北側に沿って奥州道中が通り、宿の機能も有した。江戸時代中期以降は同街道に沿う本通(表通)七町で構成された。郷帳類には福島村ないしは福島町として高付されている。

〔戦国時代〕

当地一帯は杉目すぎのめと称された。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「御はんの所」のうちとして「すきの目」とあり、段銭は八貫二五文であった。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、牧野相模が「すきのめたてめくり」(杉目館廻)などを与えられ、守護不入の地とされている。また宮代孫二郎は「すきのめ」のうち鈴木十郎衛門から購入した「いちの在け」「ふるうち在け」などを与えられている。なお検討の余地があるとされるが、延徳元年(一四八九)二月付の陸奥国信夫郡稲荷大明神棟札写および永禄二年(一五五九)八月一三日の同棟札写(ともに伊達家文書)には、信夫しのぶ郡「福島郷稲荷大明神宮」などとみえる。福島の地名はまだ成立していない時期であり、疑問が残る。

〔創設〕

近世の福島城下形成は、会津九二万石の領主蒲生氏郷が客将として迎え、信夫郡のうち五万石を与えた木村吉清によって始められたといってよい。天正一九年(一五九一)一〇月に加増された氏郷が、豊臣秀吉によって失脚させられた吉清を処遇したもので、吉清は当初当地西郊の大森おおもり城に入った。文禄元年(一五九二)に氏郷が若松城と城下の経営に着手したのに準じ、吉清もこれまでの杉妻すぎのめ城の名を改めて福島城とし、大森城下の一部住民や寺をも移して新たに城と城下町の整備に着手したといわれる。その時期は、寺の記録や元禄(一六八八―一七〇四)以降の城下絵図の注記などにより文禄二年と思われる。翌三年の蒲生領高目録に福島とみえ、高七五九石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ五分、家数三〇五(役家一九九、肝煎・検断・小走二一、諸職人・寺・山伏・座頭・脇家八五)、人数二千一七二、役木として桑・楮がある。家数・人数の多くは城下に集中していたと思われるが、町割の進捗も十分でなく、大森から移転したと伝える町も未整備であったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福島城下の言及

【福島[市]】より

…この山は平地に孤立するため展望がよく,中腹ではユズが栽培され,南麓には信夫山公園があって観光名所となっている。【大澤 貞一郎】
[福島城下]
 陸奥国信夫郡の城下町,奥州道中の宿駅であり,また米沢,会津,相馬と結ばれる交通の要所であった。また阿武隈川舟運の河港として栄えた。…

※「福島城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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