日本歴史地名大系 「信夫郡」の解説 信夫郡しのぶぐん 福島県:陸奥国信夫郡忍とも書く。東は行方(なめかた)郡・宇多(うだ)郡、北は伊具(いぐ)郡・刈田(かつた)郡(現宮城県)、西は出羽国置賜(おきたま)郡(現山形県)と耶麻郡に接する中通り北端の地。阿武隈川が東部を北流し、山道がこれに並行する。鳩峰(はとみね)峠・板谷(いたや)峠を越えて置賜郡に、土湯(つちゆ)峠を越えて会津へ通じる。奥羽山脈に栗子(くりこ)山(一二一六メートル)・一切経(いつさいきよう)山(一九四八メートル)・鬼面(きめん)山(一四八一メートル)がある。当初の郡域は現在の福島市と伊達郡(平安時代中頃分割)の地域であった。〔古代〕「国造本紀」に信夫国造とみえ、「和名抄」に「志乃不 国分為伊達郡」とある。養老二年(七一八)五月二日陸奥国の白河・石背(いわせ)・会津・安積(あさか)・信夫五郡を割いて石背国に昇格するが(続日本紀)、一〇年足らずで陸奥国に復帰する。これが郡名の初見。神護景雲三年(七六九)三月一三日「信夫郡人外正六位上丈部大庭等」に阿倍信夫臣、「信夫郡人外従八位下吉弥侯部足山守等七人」に上毛野鍬山公、「信夫郡人外少初位上吉弥侯部広国」に下毛野静戸公が賜姓されている(続日本紀)。延暦元年(七八二)五月三日、安倍信夫臣東麻呂が軍粮を献じて外従五位下を賜っている(同書)。承和一五年(八四八)五月一三日「信夫郡擬主張大田部月麻呂」の名がみえ(続日本後紀)、彼は信夫郡の郡司である。現福島市の腰浜(こしのはま)廃寺から出土した瓦銘に「伴部福□」とある。弘仁一二年(八二一)淳和天皇の名「大伴」を避けて「伴」と改姓するが、当郡に大伴氏が存在したことがわかる。「類聚三代格」公粮事に、大同五年(八一〇)五月一一日「苅田以北近郡(中略)信夫以南遠郡」とある。伊達郡の立郡は一〇世紀と考えられ、承安元年(一一七一)八月二八日の平沢寺陶製経筒銘に「伊達郡平沢寺」とある。「古事談」に「信夫郡地頭大庄司季春」、「十訓抄」に「信夫の郡司にて大庄司季春」とみえるので、一二世紀前半には信夫庄が成立している。承安元年八月一九日の天王寺陶製経筒銘に「信夫御庄天王寺如法堂」とある。信夫郡衙は現福島市北五老内(きたごろうち)の北五郎内遺跡で、郡寺は腰浜廃寺とされる。前者は二〇〇メートルに一五〇メートルの範囲に焼籾の層があり、後者は礎石建物跡と白鳳期(七世紀後半)の素弁八葉蓮華文軒丸瓦のほか、鴟尾・円面硯が発見されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by