奈良県北部、奈良盆地の北部に位置する都市。1954年(昭和29)郡山町が大和郡山と改称して市制施行。1957年片桐町を編入。JR関西本線(大和路線)、近畿日本鉄道橿原(かしはら)線、天理線、国道24号、25号が通じ、西名阪自動車道の郡山インターチェンジがある。市域は北西部の西ノ京、矢田の丘陵部と、南東部の大和川の支流で南流する富雄(とみお)川、佐保(さほ)川の流域に開けた平坦(へいたん)な沖積地に大別される。中心市街地は、西ノ京丘陵南端に築かれた郡山城の城下町を中心に発展したもので、中世の郡山荘(しょう)の地。郡山城は1578年(天正6)戦国大名筒井順慶(つついじゅんけい)によって本格的に築城が始まり、豊臣(とよとみ)秀吉の弟秀長や増田長盛(ましたながもり)の時代に完成をみた。その後、水野、松平(奥平)、本多、松平(藤井)、本多氏と郡山藩主はめまぐるしく交替したが、1724年(享保9)に柳沢氏が15万石で入封し、明治維新に至った。石垣や堀が残り、城跡は公園となっている。1980年(昭和55)追手門、東隅櫓(すみやぐら)、東多聞(たもん)櫓が再建された。一方、旧片桐町の小泉地区は江戸時代は片桐氏小泉藩1万石余の小城下町であった。
米作のほか、イチゴやナス、トマトなどの野菜栽培などが行われ、1969年に西名阪自動車道の開通で、市域南部に県下最大級の昭和工業団地が造成され、県中央卸売市場が開設されるなど、内陸工業・流通のセンターとして発展した。江戸時代に始まるキンギョ養殖はいまも盛んで、全国有数の生産量を誇り色ゴイ養殖も行われる。また紳士靴製造やメリヤス工業も知られる。近年、丘陵地は住宅開発が著しい。
矢田丘陵は県立矢田自然公園に指定され、山腹に金剛山(こんごうせん)寺(矢田寺)、松尾(まつのお)寺があり、寺宝には国指定重要文化財も多い。矢田地区東部には奈良県立民俗博物館があり、同博物館が立地する大和民俗公園には旧臼井(うすい)家住宅、旧岩本家住宅(ともに重要文化財)などの民家が移築されている。小泉地区の慈光(じこう)院庭園は国指定名勝・史跡、額田部窯(ぬかたべかま)跡は国指定史跡。稗田(ひえだ)地区には環濠(かんごう)集落がある。面積42.69平方キロメートル、人口8万3285(2020)。
[菊地一郎]
『『大和郡山市史』2冊(1966・大和郡山市)』
奈良県北西部の市。1953年郡山町に平和,矢田,治道(はるみち),昭和の4村が編入,翌54年大和郡山町と改称して市制。人口8万9023(2010)。西部は矢田丘陵の東斜面にあたり,北西部は西ノ京丘陵の南端部を占め,その地形を利用して郡山城下が形成された。両丘陵間には富雄川が南流している。東部は奈良盆地低部にあたる農業地帯で,佐保川が貫流する。郡山の本格的な発展は,1585年(天正13)豊臣秀長が入り,本格的な築城と城下町経営に着手してからである。近世には柳沢氏15万石の城下町として栄えた。今日も街路,掘割,地名などに旧城下町の面影をよく残し,毎年4月の桜の季節にはお城祭が行われにぎわう。南西部の小泉には小泉藩片桐氏の陣屋が置かれた。江戸時代に藩主柳沢氏のすすめで,武士の内職として興ったキンギョの養殖は,今日も西ノ京丘陵周辺で盛んに行われている。大和木綿の伝統をつぐ繊維関係の工場も多く,南部の昭和工業団地には,主として機械工業や食品,プラスチック関係の工場が立地している。JR関西本線,近鉄橿原線が通り,西名阪自動車道のインターチェンジがある。農業は米作を中心に,イチゴ,トマト,ナスなどの野菜類,桃,柿などが栽培される。矢田丘陵には奈良時代の創建になり,満米上人以来の地蔵信仰とアジサイの寺として著名な矢田寺(金剛山(こんごうせん)寺),舎人親王の建立と伝え,厄除け観音で参詣者の多い松尾寺,小泉藩主で茶道石州流の祖片桐石州(貞昌)の手になる庭園(史・名)で名高い慈光院や県立民俗博物館などがあり,県立自然公園に指定されている。東部の稗田は代表的な環濠集落として知られる。
執筆者:橋本 征治
西ノ京丘陵南端の台地に位置し,室町時代に在地領主により郡山城が築かれたのがはじまりである。付近には東大寺領薬園(やくおん)荘があり,奈良時代の殖槻(うえつき)寺も存在したと考えられている。郡山城を築いた在地領主らは薬園荘の荘官とみられる。1580年織田信長は郡山城を筒井順慶に与え,順慶は大増築を施工したが,85年豊臣秀長が筒井氏に代わって入城,大和,紀伊および和泉3国の主都として城郭を整備,城下町郡山を拡張・経営した。江戸幕府のもとでは,幾度か藩主の交替を経たが,1724年(享保9)以降は柳沢氏の郡山藩15万石の城下町として明治に至った。
豊臣秀長は城下町の繁栄を図り,一時多武峰(とうのみね)を郡山に遷座するなどしている。秀長時代に成立した本町,今井町など13町と近世中期までに成立したその枝町とを総称して内町といい,地子免除の町方であった。秀長の地子免除の朱印状を納めた箱を各町が1ヵ月ずつ持ち回り,箱を預かった町の年寄が箱本(はこもと)として全町を管掌する定めであった。のち周辺に外町が形成されて内町27町・外町13町の40町となったが,〈箱本十三町〉の称は残った。〈町鑑〉によると1724年当時,家数は内町1855・外町1801,人口は内町7038・外町6220であった。北大和の商圏を奈良と東西に両分し,特に農村の綿作などを掌握して町勢をあげた。
→郡山藩
執筆者:永島 福太郎
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