河村瑞賢(読み)かわむらずいけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「河村瑞賢」の意味・わかりやすい解説

河村瑞賢
かわむらずいけん
(1618―1699)

江戸前期の商人海運と治水の功労者。瑞軒とも書く。幼名七兵衛、元服して十右衛門、晩年には平太夫と称した。伊勢(いせ)国(三重県)度会(わたらい)郡東宮(とうぐう)村(現、南伊勢町)に生まれ、13歳で江戸に出、車夫、人夫、漬物屋、人夫頭などをしたのち、材木商、土木請負を始めた。明暦(めいれき)の大火(1657)の際、木曽(きそ)の材木を買い占めて巨利を得、両国橋の建設、浅草寺(せんそうじ)修築、千川(せんかわ)上水工事に参画。1671年(寛文11)土木家として幕府に召し出され御家人(ごけにん)となる。同年および翌1672年、陸奥(むつ)国(福島県)伊達(だて)・信夫(しのぶ)両郡および出羽(でわ)国(山形県)最上(もがみ)郡の天領貢租米を江戸に廻送(かいそう)するための航路づくりを命ぜられ、阿武隈(あぶくま)川河口荒浜(あらはま)から相模(さがみ)の三崎(みさき)、伊豆(いず)の下田(しもだ)を経由して江戸へ入る東廻航路(ひがしまわりこうろ)、および小木(おぎ)(佐渡)、福浦(ふくら)(能登(のと))、下関、大坂、下田を経て江戸へ入る西廻航路を整備した。その後、奥州金山の開発、小笠原(おがさわら)島の開拓、新田開発にも貢献。1683年(天和3)幕府は淀川(よどがわ)水系の水患を救治するため、瑞賢に治河工事を命じた。翌1684年(貞享1)瑞賢は来坂し、淀川下流に安治(あじ)川を開削(かいさく)、さらに中津(なかつ)川、土佐堀(とさぼり)川、堂島(どうじま)川の水量調整工事を行った。1685年には大和(やまと)川修築工事にあたった。その後元禄(げんろく)期(1688~1704)にも淀川水系の工事にあたり、近畿地方の治水工事に大貢献をなした。1698年(元禄11)旗本に列せられ、150俵を与えられた。翌元禄12年江戸霊岸島(れいがんじま)の自宅で没し、鎌倉建長寺に葬られた。

[宮本又郎]

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朝日日本歴史人物事典 「河村瑞賢」の解説

河村瑞賢

没年:元禄12.6.16(1699.7.13)
生年:元和4.2(1618)
江戸前期の商人。海運・治水の功労者。伊勢国(三重県)度会郡東宮村生まれ。諱は義道,はじめ七兵衛,のち十右衛門,晩年束髪して平太夫。瑞賢(瑞軒)は号。近世初頭,江戸の町づくりが始まり,築城から河川の開削,海運ルートの開発などの必要に迫られたとき,それにこたえて登場した。その意味では現代のディベロッパーと呼ばれる開発事業家として,すぐれた才能を持っていたということができる。その才能と技術は,単なる学問として吸収した机上の空論ではなかった。貧農の家に生まれ,13歳のとき江戸に出て車力となり,また土木工事の人夫として普請場で土石を積んだ重い車を引いた。体験に根ざした実務家でありながら,いわゆる職人でもなく,明暦3(1657)年の江戸大火の際には木曾の材木を買い占めて利益をあげる機敏さをみせた。また品川の崖の下に漂流する盂蘭盆の瓜や茄子を拾って漬け物にし,それを売り歩いて資金を作ったというエピソードの持ち主でもあった。その点で実に合理的な金銭感覚と緻密な計画性を持った事業家であったといえる。 瑞賢が幕命を受けて行った事業のうち,東廻り・西廻り海運の刷新と淀川河川の改修が2大功績としてあげられる。これらについては,特に新井白石の『奥羽海運記』と『畿内治河記』によってよく知られるところである。寛文10(1670)年の冬,幕府から奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に廻漕するよう命じられると,現地踏査を行い,阿武隈川河口の荒浜から船を南下させ,安房から三崎(相模)か下田(伊豆)を経て,西南風を待って引き返し,江戸湾に入ることに決めた。沿道の諸侯に御城米輸送船の保護を命じ,堅牢で航路に慣れた伊勢,尾張,紀伊などの民間船を雇い,同11年この方策によって廻米を成功させた。この東廻り航路は那珂湊口や銚子口から川船に積み替える従来のルートより江戸廻米の経費が少なくすんだ。翌12年,さらに幕府から出羽国村山郡の幕領米を江戸に廻漕するよう命じられた。このときは民間の堅牢な船として瀬戸内海塩飽廻船と船頭を採用した。寄港地として小木(佐渡),福浦(能登),柴山(但馬),温泉津(石見),下関,大坂,大島(紀伊),方座(伊勢),安乗(志摩),下田を定め,下関には水先案内船をおき,鳥羽港口の菅島(志摩)では毎夜烽火をあげるなどして航路の安全確保に努めた。これが西廻り航路の開発で,これにより近世海運は大きく発展してゆく基盤が与えられた。 さらに貞享1(1684)年から同4年まで,淀川河口に長さ1600間(2.9km),幅50間(90m)の新安治川を開き,その土砂で「瑞賢山」と称される防波丘を作り,松樹を植えて航海者の目標とした。また淀川,中津川の水勢を均分するなど畿内の治水に尽力し,越後高田藩の中江用水の開削や郷津湾の築港,鉱山の開発なども指導した。江戸で没し,鎌倉の建長寺に葬られた。安治川畔の国津橋跡には「贈正河村瑞賢紀功碑」が建つ。<参考文献>新井白石『奥羽海運記』『畿内治河記』(『新井白石全集』3巻),古田良一『河村瑞賢』(『人物叢書』121),児玉幸多・豊田武編『交通史』

(柚木学)

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改訂新版 世界大百科事典 「河村瑞賢」の意味・わかりやすい解説

河村瑞賢 (かわむらずいけん)
生没年:1618-99(元和4-元禄12)

江戸前期の商人,海運・治水の功労者。はじめ七兵衛,のち十右衛門,晩年は平太夫と称した。瑞賢(瑞軒,随軒)は号。伊勢国度会郡東宮村(現,三重県度会郡南伊勢町)に生まれる。貧農の子で,13歳のとき江戸に出て車力を業とし,元服して十右衛門と称した。人夫頭や材木屋となり,江戸の明暦の大火(1657)に際し木曾山林を買い占め莫大な資産をつくったという。さらに土建業を営み,幕府や諸大名の工事を請け負った。70年(寛文10)幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するよう命ぜられた瑞賢は,沿岸を現地踏査し刷新的回漕策でこれを行い,さらに72年に出羽国村山郡の幕領米の江戸回漕にも従事し,房総半島を迂回する東廻航路(東廻海運)と,日本海沿岸より下関・大坂経由の西廻航路(西廻海運)を確立した。また,84年(貞享1)畿内の治水で新安治川を開き,諸藩の事業にも関係し指導にあたった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「河村瑞賢」の意味・わかりやすい解説

河村瑞賢【かわむらずいけん】

江戸時代前期の商人。瑞軒,随軒とも記。伊勢(いせ)の貧農の出。江戸に出て車力,人夫頭,材木商などとなり,明暦の大火に木曾山林の木材の買占めを行い,巨富をなしたという。1670年以降,幕命により,東廻りおよび西廻りの廻米航路を開拓し,淀川治水のため新安治川を開く。後に旗本。→東廻海運西廻海運
→関連項目福良津

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河村瑞賢」の意味・わかりやすい解説

河村瑞賢
かわむらずいけん

[生]元和4(1618).2.15. 伊勢,鵜倉
[没]元禄12(1699).6.16. 江戸
江戸時代前期の商人。海運,土木事業家。瑞軒とも書く。赤貧のうちに幼少期を過ごした。のち車力を業とし,機略に富んでいた。あるとき上方へ行く途中,品川沿岸に打ち上げられた大量の盂蘭盆のうり,なすを見つけてこれを塩漬けにして売り利益をあげ,また明暦3 (1657) 年の江戸の大火の際,木曾の材木を買い占めて巨富を得たという。さらに海運,水利に着目し,寛文 10 (1670) 年奥州米を江戸,大坂に直接運ぶ東回り航路 (奥州荒浜-江戸) ,同 12年西回り航路 (出羽最上-下関-大坂) を開発,さらに安治 (あじ) 川,淀川,その下流の長柄 (ながら) 川,中津川などの治水事業にあたり,元禄 11 (1698) 年,旗本に列せられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「河村瑞賢」の解説

河村瑞賢
かわむらずいけん

1618.2.-~99.6.16

江戸前期の富商で,海運・治水に功労のあった事業家。伊勢国度会郡東宮村(現,三重県南伊勢町)生れ。江戸にでて,車力や人夫頭をへて,材木屋,さらに土木建設業を営み,老中稲葉正則などと結んで幕府・諸侯の土木工事を請け負った。1657年(明暦3)の江戸大火に際し,木曾の山林を買い占め,焼け跡の普請をひきうけて巨利を得たという。70年(寛文10)には陸奥国信夫郡の幕領米の江戸運送を幕府から命じられて翌年成功(東廻航路),72年から出羽幕領米の江戸廻米のため西廻航路を改善した。また84年(貞享元)から畿内の治水工事にあたり,晩年には鉱山の開発にもあたった。98年(元禄11)功により旗本に列した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河村瑞賢」の解説

河村瑞賢 かわむら-ずいけん

1618-1699 江戸時代前期の商人,土木・海運業者。
元和(げんな)4年2月生まれ。漬物屋から土木建築業に転じ,明暦の江戸大火では材木の買い占めで利益をあげる。鉱山や新田の開発,東廻航路・西廻航路の整備,淀(よど)川治水のための安治(あじ)川開削などの事業を手がけ,旗本にとりたてられた。元禄(げんろく)12年6月16日死去。82歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。名は義道。通称は十右衛門,平太夫。号は随軒ともかく。
【格言など】滅私の働きも悟りのため(「農家訓」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「河村瑞賢」の解説

河村瑞賢
かわむらずいけん

1618〜99
江戸前期の富豪・土木家
「瑞軒」とも書く。伊勢(三重県)の人。江戸に出て車夫・普請 (ふしん) 人夫頭を経て材木商を営み,1657年明暦の大火に木曽の木材を商って巨利を得,豪商となった。幕命により江戸廻米のための東廻り・西廻り航路を開き,淀川・安治 (あじ) 川・長良 (ながら) 川などの治水事業にも尽力。功により晩年150俵取りの御家人となった。

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世界大百科事典(旧版)内の河村瑞賢の言及

【安治川】より

…江戸時代初期の淀川下流は流路が複雑で,土砂によって三角州が成長し,その新田開発が進むに伴い河道が延長し,河口がふさがり舟運に障害が起こった。このため幕命を受けた河村瑞賢は,1684年(貞享1)九条島に新川を切り開いて淀川の水を一直線に海に導く改修工事を行った。この新川がのちに安治川と名付けられたが,この工事以後,諸船は伝法川を経ないで市中に入れるようになり,この川筋が諸国からの大坂入港のコースとして繁栄することとなった。…

【阿武隈川】より

…このほか,現在,河川水は上水道,農業,工業などに多面的に使われている。【大澤 貞一郎】
[近世の水運]
 水運の利用は,福島を境に上流と下流とに分かれるが,下流の水運の発達が早く,とくに1670年(寛文10)の河村瑞賢の開削以後に画期的な発展をみた。それは主として幕領信夫・伊達2郡の城米を江戸へ回送するのが目的であったが,やがて仙台藩や米沢藩の廻米輸送も盛んとなった。…

【奥羽海運記】より

…河村瑞賢の東廻・西廻両航路の刷新事業について記した基本的文献。新井白石著。…

【大阪[市]】より

…大阪府中央部にある府庁所在地。近畿地方のほぼ中央を占める大阪平野にあって,淀川河口の大阪湾岸に位置する。大阪の〈阪〉の字は,江戸時代まで坂を使うのが一般的であったが,明治以後阪に統一された。日本では東京に次ぐ経済力をもつ大都市で,西日本の地域経済活動の中枢をなし,大都市圏は大阪府下をはるかにこえて広がり,京都,神戸の都市圏と複合している。24の行政区からなり,市域の面積は212km2,人口260万2421(1995)。…

【水運】より

…各地にみられる築港,港の改修,廻米運送路の開拓,藩の船手機構の整備などはそれを実現するためであった。1671年(寛文11),72年の河村瑞賢による東廻海運西廻海運の刷新事業はこうした幕藩の海運開拓をふまえてのものであった。彼は奥州信達地方の幕領米を江戸に廻漕するにあたり,太平洋沿岸を南下し,房総半島を迂回して江戸に達する東廻航路と,出羽村山地方の幕領米を送るのに日本海沿岸を西下し下関を経て大坂に至り,さらに紀伊半島を迂回して江戸に達する西廻航路とを開いた。…

【西廻海運】より

…さらに59年(万治2)から幕府は出羽国幕領米の江戸廻漕を江戸商人正木半左衛門らに請け負わせている。このように西廻海運は事実上開拓されていたのであるが,それが安定した海運として確立するのは72年(寛文12)の江戸商人河村瑞賢による海運刷新によってである。 幕府より出羽国幕領米の江戸廻漕を命ぜられた瑞賢は,江戸に距離的に近い東廻りより航海の安全度の高い西廻りを採り,航路沿いを現地踏査あるいは人を遣わし,海路の利害,島嶼の危険,港湾の便をくわしく調査したうえで江戸廻米(かいまい)の計画を立てた。…

【東廻海運(東回海運)】より

… やがて房総半島を迂回し江戸に直接に廻漕する,いわゆる大廻りの東廻航路が開拓されてくる。寛文(1661‐73)初期に弘前藩や八戸藩の一部廻米船が大廻りで江戸に達していたが,この大廻りの東廻海運を確立したのが江戸商人の河村瑞賢である。70年,幕府より陸奥国信夫(しのぶ)・伊達(だて)両郡の幕領米の江戸廻漕を命ぜられた瑞賢は,次の方策によった。…

【堀江】より

…(2)大阪市西区の地名。1698年(元禄11)江戸幕府は新地の開発を目的に,河村瑞賢に命じて大坂三郷地続きの長堀川,道頓堀にはさまれた地を開発させ,中央部東西に堀川を開削させて〈堀江川〉と名づけた。以後川の北側を北堀江,南側を堀江と通称するようになったが,幕府は堀江新地繁栄のため上荷船500艘,新土船24艘を許可したほか,茶屋株,煮売株,水茶屋,湯屋株,道者宿株,髪結床,能舞台,芝居,相撲,魚市,青物市を許し,三郷のなかに組み入れた。…

【大和川】より

…大和川を柏原の地点から西流させてただちに海に流下させたいとの地元の要望により,河内国河内郡今米村の中甚兵衛らが奔走して大和川付替え工事の請願を江戸幕府に提出した。1683年(天和3),幕命により稲葉正休(まさやす)らが河村瑞賢をともなって関係河川を視察したが,大坂市中の治水と舟運を重視する立場から大和川はんらんの原因は淀川河口にあるとして,瑞賢による84‐85年(貞享1‐2)の工事では淀川本流の浚渫(しゆんせつ)および新堀(安治川)の開削が行われ,大和川の分流計画は退けられた。しかし,10年余を経て,新田開発をともなう治水の見地が優先して新大和川の掘削が計画され,旧本流には用水路および舟運路としての機能を残し,旧川床および沼沢地を新田開発に当てることになった。…

※「河村瑞賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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