日本大百科全書(ニッポニカ) 「秋山要助」の意味・わかりやすい解説
秋山要助
あきやまようすけ
(1772―1833)
近世後期の剣術家。通称要助、諱(いみな)は正武。武州忍(おし)領(阿部播磨守(はりまのかみ))熊谷宿在箱田村(埼玉県熊谷市)の農民の出身。神道無念流戸ヶ崎熊太郎暉芳の門に入り、ついで江戸・神田猿楽(さるがく)町の岡田十松(じゅうまつ)撃剣館に学んだ。1800年(寛政12)常陸(ひたち)多賀郡平潟(ひらかた)村(北茨城市)において十松門下の喜六(大橋平吉)の仇(あだ)討ち事件に助勢するなど、異色の剣客としてその名を高めた。1811年(文化8)郷里箱田に、ついで武州飯能(はんのう)に扶桑館道場を開き、1827年(文政10)53歳のとき、剃髪(ていはつ)して入道雲嶺(うんれい)と号した。1830年(天保1)上毛(じょうもう)佐野の尚志道人(山崎観純)に協力して、同地に郷学「講武堂」を設け、さらに水戸、高崎、伊勢崎(いせさき)にも道場を置いて巡回指導した。また南総の文人篠崎司直や近郷吉見町出身の愚禅和尚(おしょう)(加賀大乗寺43世)とも親交を結び、水戸藩の侍講立原杏所について絵画を学び、墨梅を描くのを得意とした。天保(てんぽう)4年の春、佐野で客死。享年62歳。
[渡邉一郎]