神道無念流(読み)しんとうむねんりゅう

精選版 日本国語大辞典 「神道無念流」の意味・読み・例文・類語

しんとう‐むねんりゅうシンタウムネンリウ【神道無念流】

  1. 〘 名詞 〙 剣術流派一つ。新神陰一円流の福井兵右衛門嘉平が元文五年(一七四〇)に江戸四谷に道場を開き創始したもの。嘉平の高弟戸賀崎熊太郎暉芳から有名になった。〔武術流祖録(1843)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神道無念流」の意味・わかりやすい解説

神道無念流
しんとうむねんりゅう

近世中期に台頭した剣術の新流派の一つで、流祖は福井兵右衛門嘉平(へいえもんよしひら)(1702―81?)。兵右衛門は下野国(しもつけのくに)都賀(つが)郡藤葉(ふじは)村(栃木県壬生(みぶ)町藤井)の生まれで、初名を川上善太夫(かわかみぜんだゆう)といい、惣社(そうじゃ)(栃木市内)の牧野円泰(まきえんたい)に新神陰一円(しんかげいちえん)流を学び、のち廻国(かいこく)修行に出て、信州飯綱権現(いづなごんげん)に参籠(さんろう)すること50日、無我無念に至って、よく剣の奥秘を悟ったという。1740年(元文5)38歳のとき、江戸四谷(よつや)に道場を開き、初めて神道無念流を標榜(ひょうぼう)し、ここで戸賀崎熊太郎暉芳(とがさきくまたろうてるよし)(1744―1809)という逸材を得て、後日発展の因をつかんだ。熊太郎は武蔵(むさし)国埼玉郡上清久(かみきよく)村(埼玉県久喜(くき)市内)の豪農の生まれで、1759年(宝暦9)16歳のとき福井の道場に入門し、21歳のとき皆伝免許を得て郷里に帰り、自宅に四間・八間の道場を設け、近隣の子弟らに教授していたが、78年(安永7)ふたたび江戸へ出て、麹町(こうじまち)裏二番町に道場を開き、83年(天明3)門人大橋冨吉の牛込神楽坂(うしごめかぐらざか)行元(ぎょうがん)寺門前における仇討(あだうち)を成功させて、一躍その名を知られた。

 そして前後18年、もっぱら道場経営につとめ、当時しだいに流行となった竹刀(しない)打ち込み稽古(げいこ)を採用し、老中松平定信(さだのぶ)の「お声がかり」と称せられる江戸屈指の町道場に成長した。1795年(寛政7)熊太郎は父の老後をみるため郷里に引退し、神田駿河台(するがだい)の道場は高弟の岡田十松吉利(じゅうまつよしとし)(1765―1820)に譲った。十松はその後、門人の急増を受けて神田猿楽(さるがく)町に移し、撃剣館(げきけんかん)と称し、また北は松前から西は長崎に至るまで、しばしば遊歴指導に出向したため、門人は全国に広まった。門人には、前期に扶桑(ふそう)無念流を唱えた秋山要助正武(ようすけまさたけ)、鈴木派無念流をおこした鈴木斧八郎重明(しげあき)、常陸(ひたち)水戸藩との関係の端緒となった宮本左一郎(さいちろう)などがあり、後期から2代十松にかけての門人には、のちに江戸三大道場の一つに数えられた練兵館を建てた斎藤弥九郎善道(やくろうよしみち)、および有力な後援者江川邦次郎(英龍(ひでたつ)・坦庵(たんなん))・渡辺崋山(かざん)・藤田東湖(とうこ)らの名士、森重百人之蔵・望月鵠助・芹沢鴨(せりざわかも)・金子健四郎らの剣士を輩出した。

[渡邉一郎]

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デジタル大辞泉プラス 「神道無念流」の解説

神道無念流

剣術の流派のひとつ。江戸時代中期、下野国出身の福井兵右衛門嘉平(よしひら)が創始し、江戸に道場を構えた。武蔵国出身で、2代宗家の戸賀崎熊太郎が麹町に道場を構えてから門人が増え、江戸三大道場のひとつ、練兵館を開いた斎藤弥九郎など、優れた剣客を多く輩出した。

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