稷門(読み)しょくもん(英語表記)Jì mén

改訂新版 世界大百科事典 「稷門」の意味・わかりやすい解説

稷門 (しょくもん)
Jì mén

中国,斉の都臨淄(りんし)の城門の名。戦国斉の盛時,学問を愛好した威王や宣王は学者を招き,稷門付近に邸宅を建てて住まわせ,多額の生活費を与えて論争著述に従事させた。その数は数百人から1000人にものぼり,稷下の学士とか稷下先生とよばれた。宣王時代の鄒衍(すうえん),淳于髠(じゆんうこん),田駢(でんべん),慎到らはとくに有名である。斉のこのような学問優遇の伝統は襄王ごろまでつづき(前357-前265),いわゆる稷下の学を形成して戦国時代の文化学術の一大中心となった。
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普及版 字通 「稷門」の読み・字形・画数・意味

【稷門】しよくもん

稷下。

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世界大百科事典(旧版)内の稷門の言及

【淄博】より

…殷・周以前からの文化の伝統をもち,春秋戦国時代を通じて,華北の雄国であった斉の基盤の地はここであった。国都の臨淄(臨菑,臨甾)は,10万近い人口を擁し,商工業が発達していたのに加え,中原よりもむしろ高い文化の伝統を誇り,西門の稷門(しよくもん)付近には全国から学者文士が集まった(稷下の学士)といわれる。今もその遺跡は残り,周囲14km余の長方形の大城と,その南西隅に小城(周囲7km余)をもつ二重の城壁が発見されている。…

【諸子百家】より

…彼らは各国の為政者が悩む内外の事件に解決の方策を提供し,各自の信ずる政策を入説した。また,彼らを保護した有力君主も出現,たとえば斉の威王・宣王(在位,前378‐前324)らは臨淄(りんし)の都城の稷門(しよくもん)付近に参集した〈文学の士〉に邸第を与え,仕官を条件とせず自由討議をさせている。この〈稷下の学士〉には,騶衍(すうえん),騶奭(すうせき),淳于髡(じゆんうこん),田駢(でんべん),接子,慎到,環淵や〈管子〉学派があり,孟子や荀子の徒ものちに名を連ねた。…

※「稷門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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