穂別村(読み)ほべつむら

日本歴史地名大系 「穂別村」の解説

穂別村
ほべつむら

昭和四年(一九二九)から同三六年一二月までの勇払ゆうふつ郡の村。昭和四年一〇月一日に似湾にわん村が改称して成立。改称理由は大正一三年(一九二四)に村役場を穂別市街に移しており、似湾村の名では不便不利が生じたことによる(新穂別町史)。昭和五年未曾有の冷害により三ないし四分作の凶作となり、同六年凶作救済土木事業を実施。同一〇年村社穂別神社が創設され、上穂別(現在の字長和)に拓殖医院(同一四年閉院)が開業(以上、前掲町史)。同一二年穂別市街に電話開通。同一四年には新登川しんのぼりかわ炭鉱設立(同二九年閉山)辺富内へとない炭鉱が採炭事業を開始、千福せんぷく鉱山で石油産出。


穂別村
ほべつむら

[現在地名]勇払ゆうふつ郡穂別町字豊田とよた・字穂別・字稲里いなさと・字長和おさわ

明治初年(同二年八月から同六年の間)から大正八年(一九一九)三月までの村。勇払郡北東部に位置し、西は山林地帯を境に厚真あつま(現厚真町)、東は辺富内へとない村、北東は石狩国夕張郡、南は累標るべしべ村に接する。村の中央南端で川に穂別川が合流する。明治六年(一八七三)六月の「胆振国地誌提要」にアイヌ一三戸・五二人(男二七・女二五)の「シユフシナ井村」(シュフンナイ村)、アイヌ一六戸・六〇人(男二六・女三四)のホヘツフト村がみえ、同年八月この二村を統合して穂別村とすることを決定(「勇払往復」道立文書館蔵簿書)。同三〇年に宮城県人の佐々木健五郎が中穂別(現在の字稲里)に入地、翌三一年には似湾にわん村の佐久間茂助など六人が穂別村本村に入地し、当地の草分となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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