竹之下古戦場跡(読み)たけのしたこせんじようあと

日本歴史地名大系 「竹之下古戦場跡」の解説

竹之下古戦場跡
たけのしたこせんじようあと

[現在地名]小山町竹之下

建武二年(一三三五)一二月に竹之下周辺を舞台に行われた後醍醐天皇方の尊良親王脇屋義助の軍と足利尊氏軍との合戦、箱根はこね峠付近の新田義貞軍と足利直義軍との合戦を総称して竹之下・箱根の合戦ともいう。小山町竹之下の町役場足柄あしがら支所前に「竹之下古戦場」碑が立つ。中先代の乱で北条時行追討後鎌倉に留まり、征夷大将軍任命を求めて後醍醐天皇の上洛の命令に従わない足利尊氏に対して、天皇が尊氏追討を企図した戦い。建武二年一一月一九日に尊良親王を総大将に奉じて出陣した新田義貞軍は、二五日、三河矢作やはぎ川で高師泰軍、一二月五日には駿河手越てごし河原で足利直義軍を破り、さらに東進し駿河・伊豆国境付近に布陣する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む