(相馬万里子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
後醍醐(ごだいご)天皇の第二皇子。「たかよし」とも読まれる。母は権大納言(ごんだいなごん)藤原為世(ためよ)の女(むすめ)為子。一の宮と記した系図、史書もある。1326年(嘉暦1)元服、中務卿(なかつかさきょう)に任ぜられ三品(さんぼん)に叙せられた。31年(元弘1)父天皇の笠置(かさぎ)潜幸に従ったが、河内(かわち)で幕府方に捕らえられ、32年土佐国(高知県)に流された。建武(けんむ)新政後帰洛(きらく)したが、35年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)が反すると、追討上(ついとうじょう)将軍として新田義貞(にったよしさだ)らと東征に赴いたが、利あらずいったん京都に帰還、翌年ふたたび皇太子恒貞(つねさだ)親王とともに新田義貞軍を率い、北陸に向かい越前金ヶ崎(えちぜんかながさき)城に入ったが、寒気と食糧難のため37年3月6日落城、同日親王も自害して果てた。27歳。墓は京都市左京区南禅寺下河原町にある。
[飯倉晴武]
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後醍醐天皇の皇子。〈たかなが〉ともよむ。母は歌道家藤原為世の女為子。元弘の乱で1332年(元弘2)3月土佐へ流されたが九州へ渡り,33年肥前の江串氏に擁されて挙兵。鎮西探題の陥落後大宰府に入り,8月帰洛。35年(建武2)11月には鎌倉に反した足利尊氏討伐の軍を進めた。36年(延元1・建武3)10月新田義貞らとともに越前に赴き金崎城に拠って北陸経営に尽力したが,翌年3月落城の際自害。
執筆者:森 茂暁
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…後醍醐天皇の皇子。〈たかなが〉ともよむ。母は歌道家藤原為世の女為子。元弘の乱で1332年(元弘2)3月土佐へ流されたが九州へ渡り,33年肥前の江串氏に擁されて挙兵。鎮西探題の陥落後大宰府に入り,8月帰洛。35年(建武2)11月には鎌倉に反した足利尊氏討伐の軍を進めた。36年(延元1∥建武3)10月新田義貞らとともに越前に赴き金崎城に拠って北陸経営に尽力したが,翌年3月落城の際自害。【森 茂暁】…
…公家一統の親政により建武の中興をはかる後醍醐天皇は,両統迭立を否定して1334年(建武1)恒良親王を皇太子に立てた。しかし翌年足利尊氏らの離反で建武体制が崩壊したばかりか,尊氏らの反攻にあって天皇・皇太子らは苦境に立ち,36年(延元1∥建武3)皇太子は兄尊良親王(1311‐37)とともに新田義貞に擁されて越前金崎城に入城して北陸経営に当たった。だがその城も37年足利勢に攻められて兄親王は自害し,恒良親王は捕らえられて京都に護送され,1年後の38年4月没した。…
…旧官幣中社。後醍醐天皇の第1皇子尊良(たかよし)親王と第6皇子恒良(つねよし)親王をまつる。新田義貞に奉ぜられた両親王は,1337年(延元2∥建武4),金崎城によって足利方と戦って敗れ,尊良親王は自害,城を逃れた恒良親王も翌年京都で毒死した。…
※「尊良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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