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尊良親王 たかながしんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

尊良親王
たかながしんのう

[生]応長1(1311).京都
[没]延元2=建武4(1337).3.6. 敦賀
後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘為子。中務卿。「たかよし」とも読む。元弘の乱が起り,父天皇に従って笠置に赴き,次いで赤坂城に入った。戦い敗れて鎌倉幕府に捕えられ,土佐配流されたが,建武政府 (→建武中興 ) が成立し,京に帰った。建武2 (1335) 年足利尊氏が挙兵すると,天皇は親王を上将軍として新田義貞とともに追討させた。次いで尊氏が西国から京都に迫ると,叡山に難を避けた天皇は,尊氏の請いをいれて還幸するにあたり,義貞に旨を含めて,親王および皇太子恒良親王を奉じて北国に赴かせ,越前金崎城に拠らせたが,足利軍のため落城,親王は自害。墓は京都市左京区南禅寺下河原町にある。

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デジタル大辞泉の解説

たかなが‐しんのう〔‐シンワウ〕【尊良親王】

[1311~1337]後醍醐天皇の第2皇子。名は「たかよし」とも。元弘の変で土佐に流された。足利尊氏(あしかがたかうじ)の離反には新田義貞とともに戦い、越前金ヶ崎城を守ったが、落城し、自害した。

たかよし‐しんのう〔‐シンワウ〕【尊良親王】

たかながしんのう(尊良親王)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

尊良親王 たかよししんのう

1311-1337 鎌倉-南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
応長元年生まれ。元弘(げんこう)の乱で土佐(高知県)に流されるが,正慶(しょうきょう)2=元弘3年京都にもどる。建武(けんむ)2年足利尊氏とたたかって敗れ,恒良(つねよし)親王や新田義貞とともに越前(えちぜん)(福井県)金崎城にはいったが,高師泰(こうの-もろやす)らに攻められ,建武4=延元2年3月6日自害した。27歳。名は「たかなが」ともよむ。

尊良親王 たかながしんのう

たかよししんのう

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朝日日本歴史人物事典の解説

尊良親王

没年:建武4/延元2.3.6(1337.4.7)
生年:生年不詳
南北朝期の皇族。後醍醐天皇皇子。「たかなが」とも呼ばれる。母は歌人二条為世の娘で,歌人の為子。嘉暦1(1326)年に元服,中務卿に任じられ,その後一品に叙せられ,一品中務卿親王と称される。元弘の乱(1331)に際しては,土佐へ配流されたが,正慶2/元弘3(1333)年帰京。建武2(1335)年足利尊氏討伐のため,上将軍として新田義貞らと東征するが,敗退,越前(福井県)金崎城に拠る。建武4/延元2(1337)年3月金崎城落城時に自害。このとき27歳とする説に拠り,応長1(1311)年生まれとみて,延慶1(1308)年生まれの異母の護良親王を年上とする説があるが,母為子の没年の考証や,同母弟宗良親王が応長1年生まれと推測される史料があることや,『太平記』『増鏡』とも一の宮としている点などから,尊良親王が,徳治年間(1306~08)誕生の第1皇子で,後醍醐天皇皇子中では最年長と考える説もある。勅撰集の『続後拾遺集』に1首,『新葉集』に44首入集した歌人で,『一宮百首』という詠作がある。<著作>『一宮百首』(『新編国歌大観』10巻)

(相馬万里子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

たかよししんのう【尊良親王】

1311‐37(応長1‐延元2∥建武4)
後醍醐天皇の皇子。〈たかなが〉ともよむ。母は歌道家藤原為世の女為子。元弘の乱で1332年(元弘2)3月土佐へ流されたが九州へ渡り,33年肥前の江串氏に擁されて挙兵。鎮西探題の陥落後大宰府に入り,8月帰洛。35年(建武2)11月には鎌倉に反した足利尊氏討伐の軍を進めた。36年(延元1∥建武3)10月新田義貞らとともに越前に赴き金崎城に拠って北陸経営に尽力したが,翌年3月落城の際自害。【森 茂暁】

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大辞林 第三版の解説

たかながしんのう【尊良親王】

たかよししんのう【尊良親王】

1311~1337) 後醍醐天皇の皇子。元弘の乱で土佐に配流。足利尊氏が離反すると、追討のため新田義貞とともに東下したが敗れ、越前金崎城に拠り、落城の際、自害。

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世界大百科事典内の尊良親王の言及

【尊良親王】より

…後醍醐天皇の皇子。〈たかなが〉ともよむ。母は歌道家藤原為世の女為子。元弘の乱で1332年(元弘2)3月土佐へ流されたが九州へ渡り,33年肥前の江串氏に擁されて挙兵。鎮西探題の陥落後大宰府に入り,8月帰洛。35年(建武2)11月には鎌倉に反した足利尊氏討伐の軍を進めた。36年(延元1∥建武3)10月新田義貞らとともに越前に赴き金崎城に拠って北陸経営に尽力したが,翌年3月落城の際自害。【森 茂暁】…

【恒良親王】より

…公家一統の親政により建武の中興をはかる後醍醐天皇は,両統迭立を否定して1334年(建武1)恒良親王を皇太子に立てた。しかし翌年足利尊氏らの離反で建武体制が崩壊したばかりか,尊氏らの反攻にあって天皇・皇太子らは苦境に立ち,36年(延元1∥建武3)皇太子は兄尊良親王(1311‐37)とともに新田義貞に擁されて越前金崎城に入城して北陸経営に当たった。だがその城も37年足利勢に攻められて兄親王は自害し,恒良親王は捕らえられて京都に護送され,1年後の38年4月没した。…

【金崎宮】より

…旧官幣中社。後醍醐天皇の第1皇子尊良(たかよし)親王と第6皇子恒良(つねよし)親王をまつる。新田義貞に奉ぜられた両親王は,1337年(延元2∥建武4),金崎城によって足利方と戦って敗れ,尊良親王は自害,城を逃れた恒良親王も翌年京都で毒死した。…

※「尊良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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