竹之下村(読み)たけのしたむら

日本歴史地名大系 「竹之下村」の解説

竹之下村
たけのしたむら

[現在地名]小山町竹之下

所領しよりよう村の南、足柄あしがら峠北西麓の鮎沢あゆざわ川沿岸に位置する。足柄峠を控えた交通の要衝で、中世には東海道足柄路の宿として発達、近世には矢倉沢やぐらさわ往還が通り、当地から甲州や信州への道が分岐していた。善光ぜんこう寺と興雲こううん寺の開基とされる竹之下孫八左衛門は、当村を開いたとの伝承があり、彼の墓と称する宝篋印塔もある。また延宝八年(一六八〇)の村鑑帳(鈴木家文書)によると、字城腰じようのこしに孫八左衛門の屋敷があったともいう。竹下藍沢系図(湯山家文書)・葛山御宿系図(藤曲家文書)・大森葛山系図(続群書類従)・仙年寺過去帳(仙年寺文書)などでは孫八左衛門は鎌倉幕府草創期の葛山氏の一族として位置付けられている。しかし「曾我物語」の伊豆赤沢山の相撲の場面に登場するのみで、実在が裏付けられるには至っていない。

建久元年(一一九〇)一二月二七日、源頼朝は京からの帰路「竹下」に着いている(吾妻鏡)。貞応二年(一二二三)四月一五日「海道記」の作者は当地に宿泊、「山のこなたに竹の下といふ処に泊まる」などと記している。暦仁元年(一二三八)一〇月二七日、将軍九条頼経は上洛帰途、当地に宿泊(吾妻鏡)、また歌人飛鳥井雅有も竹之下宿に泊まり、「たびごろもなれにし里をへだてきてふたよになりぬ竹のしたぶし」と詠んでいる(隣女集)日蓮は文永一一年(一二七四)五月一三日鎌倉から身延みのぶに赴く途中「たけのした」に泊まり(文永一一年五月一七日付日蓮書状)、弘安五年(一二八二)九月一四日、身延から池上いけがみ(現東京都大田区)への途次にも宿泊している(日蓮聖人註画讃)。なお如願法師(如願法師集)・北条長時(続拾遺集)藤原光俊(新撰和歌六帖)・高階宗成(遺塵集)・冷泉為相(夫木抄)・藤原頼成(風雅集)・疑然法師(続現葉集)・法印公順(拾藻鈔)・増春法師(新三井集)、冷泉為相の娘(風雅集)細川幽斎(東国陣道記)などが当地を歌に詠んでいる。


竹之下村
たけのしたむら

[現在地名]三浦市初声はつせ和田わだ

台地に畑、谷戸水田をもつ小村で、民家は散在する。正保国絵図に村名がなく、元禄国絵図に竹ノ下村とある。「風土記稿」によればもと和田村のうちで、慶安年間(一六四八―五二)分村したが、赤羽根あかばね村を含めて地域が錯雑して区別ができないとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android