日本歴史地名大系 「竹渕村」の解説 竹渕村たけぶちむら 長野県:松本市寿地区竹渕村[現在地名]松本市寿 竹渕中山丘陵の西側、田(た)川東岸にあり、牛伏(うしぶせ)川が村内を流れる。元応元年(一三一九)竹渕郷の地頭竹渕四郎泰経と白河郷の地頭白河十郎が争った記事が守矢文書にある。次いで嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の頭役を定めた鎌倉幕府下知状案(守矢文書)にも竹渕郷の名がある。建武中興後小笠原氏の松本進出により、これら小地頭はすべて小笠原氏に属したようである。天正検地には二八八石八斗二升と高付けされている。元和三年(一六一七)諏訪高島藩領に分けられ、寛文一二年(一六七二)諏訪高島藩の分家諏訪頼蔭の所領となった。 竹渕村たこちむら 大阪府:八尾市竹渕村[現在地名]八尾市竹渕亀井(かめい)村の西、奈良街道および平野川のすぐ南側に位置する。西隣は摂津平野郷(ひらのごう)町(現大阪市平野区)南方の狭山(さやま)池(現南河内郡狭山町)から発する東除(ひがしよけ)川は、大和川付替え以前は当村で南東からくる大和川の一分流と合して、平野川となった。古くは東除川の下流は竹渕川と称されたという。古代の渋川郡竹渕(たかふち)郷(和名抄)の地域にあたる。地名は平野川のつくる淵に関係しよう。竹渕神社縁起(光正寺文書)は、神武天皇が長髄彦に襲われた時、当地の大竹藪の中に入ったが、それが長髄彦の目には深い渕の中に入った神変とみえたと記す。渋川郡に属し、文禄三年(一五九四)の検地帳(塩川文書)では村高五一三石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報