渋川郡(読み)しぶかわぐん

日本歴史地名大系 「渋川郡」の解説

渋川郡
しぶかわぐん

和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「シフカハ」、東急本国郡部に「之不加波」とある。当郡は、おおむね大和川本流であった長瀬ながせ川とその分流の平野川とに包まれる地域で、東は長瀬川を境に若江郡、西は平野川とその支流猫間ねこま川を境に摂津国東生ひがしなり(東成)百済くだら・住吉三郡、南はほぼ平野川を境に志紀郡と接していた。ただし大和川付替え以前の東除ひがしよけ川が平野川に合流する辺りは、東除川を摂津との境としていたようで、一部平野川左岸にはみだしている。また「万葉集」巻二〇の一首の詞書に「河内国伎人郷」とある伎人くれひと郷が、江戸時代の住吉郡喜連きれ(現平野区)辺りであるとすると、かつては東除川左岸のこの辺りまで渋川郡であったと考えられる。南限は現八尾やお市に属する植松うえまつ村・太子堂たいしどう村、喜連村の南を連ねる東西線が、渋川郡と志紀郡の境をなし、渋川郡と摂津国との境界線は喜連の西を南北に走り、平野郷(現平野区)の辺りで平野川に続いたのではないかと推定しておく。こう考えた場合の渋川郡と志紀郡の境界線は「日本書紀」雄略天皇一四年条にみえる「磯歯津しはつ路」に相当し、その西への延長は摂津国(住吉郡)と河内国(丹比郡)の境をなしたと思われる。なお渋川郡の北は、古くには河内湖に臨んでいたとみられる。現在、郡の南半は八尾市に、北半は東大阪市と大阪市平野区・生野いくの区に含まれる。

〔古代〕

「和名抄」によれば当郡は竹渕たかふち邑智おうち余戸あまりべ跡部あとべ賀美かみの五郷よりなる。郡名は、「日本書紀」持統天皇三年(六八九)七月二〇日条に「偽の兵衛河内国の渋川郡の人柏原広山を土左国に流す」とあるのが初見であるが、原史料には「渋川評」とあったのであろう。より確実なのは、天平一八年(七四六)の経師勘籍(正倉院文書)に「飽田史石足年廿四河内国渋川郡賀美郷即戸主」とあるものであろう。これにはさかのぼって神亀四年(七二七)までの記載がある。このほか正倉院文書の勘籍には年次不明ながら渋川郡竹渕郷の船連石立のもの、舎人貢進文に天平宝字八年(七六四)の「渋川郡加美郷」の弓削宿禰伯麻呂のものがあり、この辺りから律令政府に下級官人が多数出身したことを物語る。また天平一九年の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳によると、法隆寺はこのとき渋川郡に水田四六町余、薗地六町、庄倉一処を有していた。経済的にも進んだ地であることが知られる。当郡の東西に長瀬川・平野川が流れ、平野が発達しているうえに交通・運輸の便に恵まれていることによるものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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