懿徳天皇(読み)イトクテンノウ

デジタル大辞泉 「懿徳天皇」の意味・読み・例文・類語

いとく‐てんのう〔‐テンワウ〕【懿徳天皇】

記紀で、第4代の天皇安寧天皇の第2皇子。名は、大日本彦耜友おおやまとひこすきとも皇居軽曲峡宮かるのまがりおのみや

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精選版 日本国語大辞典 「懿徳天皇」の意味・読み・例文・類語

いとく‐てんのう‥テンワウ【懿徳天皇】

  1. 第四代天皇。安寧天皇の第二皇子。名は大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)。「日本書紀」によれば、大和(かる)の地に都を遷(うつ)して、曲狭宮(まがりおのみや)と称し、在位三四年という。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「懿徳天皇」の意味・わかりやすい解説

懿徳天皇
いとくてんのう

皇室系譜に第4代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)、安寧(あんねい)天皇の第2子で母は渟名底仲媛命(ぬなそこのなかつひめのみこと)、安寧天皇11年に立太子、懿徳元年即位、同2年に軽(かる)(橿原(かしはら)市大軽町付近)の曲峡宮(まがりおのみや)に遷都して天豊津媛(あまとよつひめ)命を皇后とし、同34年に没して畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのかみのみささぎ)に葬られたという。『古事記』は母を阿久斗比売(あくとひめ)命、皇后を賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)命とし、45歳で没したと伝える。

[星野良作]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「懿徳天皇」の解説

懿徳天皇 いとくてんのう

記・紀系譜による第4代天皇。
父は安寧天皇。母は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)。伝説上の人物ともいわれる。「日本書紀」によると,都は軽(かる)の曲峡(まがりおの)宮。懿徳天皇34年9月8日死去。45歳(「古事記」)。墓所は畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまさごのたにのえのみささぎ)(奈良県橿原市)。別名は大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「懿徳天皇」の意味・わかりやすい解説

懿徳天皇
いとくてんのう

第4代に数えられる大和朝廷の天皇。名はオオヤマトヒコスキトモノミコト。安寧天皇の第2皇子,母は皇后ヌナソコナカヒメノミコト。大和の軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)に都し,皇后をアマトヨツヒメノミコトという。陵墓は奈良県橿原市西池尻町の畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)。

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朝日日本歴史人物事典 「懿徳天皇」の解説

懿徳天皇

『古事記』『日本書紀』に第4代と伝えられる天皇。『日本書紀』によれば,安寧天皇と鴨王の娘淳名底仲媛命(事代主神の孫)との間に生まれた。大日本彦耜友天皇という。息石耳命という兄がいたが,安寧天皇死後,即位した。安寧天皇を畝傍山南御陰井上陵に葬り,軽(橿原市)に曲峡宮を営んだと伝えられる。

(大平聡)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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