築町
つきまち
[現在地名]長崎市築町・江戸町・銅座町・出島町・賑町
本下町の南にある。天正一三年(一五八五)より文禄元年(一五九二)までに海面を埋立てて築町が成立、豊臣秀吉の直轄領となり、地子銀が免除された。慶長四年(一五九九)の町立てともいう(長崎建立并諸記挙要)。元和八年(一六二二)の長崎ロザリオ組中連判書付に「つき町tcuqui machi」の「Paulo」「Lusia」「Mathias」ら四人や、あばん・るひすが署名、ドミニコ会宣教師に組織された信徒がいた。
築町
つきまち
[現在地名]鹿児島市名山町・泉町など
六日町の東に位置し、南は泉町・汐見町、東は海に面する(鹿児島県地誌)。チクマチとも通称され、築地町とも称した。下町一二町の一。安永年中(一七七二―八一)海岸の埋立造成により成立したという。天保切絵図では北側に名山堀があり、船溜には多くの小船や花見に行く舟が描かれている。西側は広小路に面する。広小路には水道の高枡があり(鹿児島ぶり)、「石にて造りはかのやうなり」「高サ壱丈弐三尺、此水御城より流る、町中ののミ水とする」と(薩摩風土記)、冷水から鹿児島城を経て町屋敷に水が配されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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