泉町(読み)いずみちよう

日本歴史地名大系 「泉町」の解説

泉町
いずみちよう

[現在地名]水戸市泉町一―三丁目・大工だいく町一丁目

みなみ町の西の柵門を出てから本大工ほんだいく町に至る間の東西に通じる町で、東から西へ一町目―四町目に分れ、この町の東端から本大工町の西端までを含めた長さは五町五四間五寸。

「新編常陸国誌」に「此地ノ開ケシハ、慶長ノ比ニモヤアラン、寛永ノ初マデハ、郷分ニテアリシト見ユ」とみえるが、元和(一六一五―二四)頃からは町人町となり、「探旧考証」の元和七年の記事に「大町中町に住居せし町人之内あら町泉町ノ古名へ引移しハ当年同九癸亥ノ年也ト云々」とある。「水府地名考」の泉町の項に「新町 本新町 穀町」と併記し、「初めハ新町或ハ荒町とも書けりと称せしか後本新町に改む寛文初年の旧記には本新町と見へたり(中略)今鉄炮町を新町ともいふなれは夫等へ別かたん為めに本の字を加へし歟」とみえる。「然るに度々火災ある事をなげき源義君右木町を金町に御改被遊たる例にならひ」(水府地理温故録)泉町と改めた。

泉町
いずみちよう

[現在地名]伊丹市みやまえ二丁目・伊丹一丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。綿屋わたや町の南側に位置し、ほん町筋を挟んだ両側町。古くは柴屋しばや(文禄伊丹之図・寛文九年伊丹郷町絵図)柴之座しばのざ(有岡古続語)と称し、寛文―元禄(一六六一―一七〇四)頃までに泉町と改称したといい(「正心調法記」武田家文書)、寛政八年(一七九六)の伊丹細見図(伊丹市立博物館蔵)や文化改正伊丹之図(同館蔵)は泉町。

泉町
いずみちよう

中京区夷川通西洞院東入・新町東入

東西に通る夷川えびすがわ(旧冷泉小路)を挟む両側町。現在、夷川室町むろまち西入(夷川通北側のみ)、同衣棚ころものたな西入、同新町しんまち(旧町尻小路)西入、同釜座かまんざ西入の四ヵ所に分れる。

平安京の条坊では、左京二条三坊二保三町と同六町の南側、同四町と五町の北側付近。平安中期以降は、冷泉町尻小路から冷泉西洞院大路の間の地。当町西二町域の北側は大炊殿、東二町域の南側は町尻殿の地にあたる(拾芥抄)

泉町
いずみまち

[現在地名]金沢市泉一―二丁目・弥生やよい一丁目・野町のまち四丁目

城下の南西端、北陸街道沿いの両側町で地子町。野町六丁目の南西にあり、中間で南に折れ泉新いずみしん町に続く。町名は、かつてこの地が泉村地であったことによる。慶長八年(一六〇三)四月二七日泉野新いずみのしん町が成立したとされるが(「前田利長在判定書」金沢古蹟志)、これが泉町のことで、延宝町絵図には泉町までが図示されている。文化八年(一八一一)の肝煎は甚左衛門、組合頭は小松屋次郎八・荒屋孫兵衛、家数一六一(うち武家二九)。町人のうち職人は雛細工、塗師、鍛冶、大工、樽・桶屋各三のほか、扇子、紺屋、機織、傘細工、酒造、畳刺、かな引、鍬柄、植木、竹・籠細工、刷毛細工、木挽と多様。

泉町
いずみちよう

大正一一年(一九二二)から昭和四一年(一九六六)までの町名。絵鞆えとも半島の中央部に位置し、現在の幕西まくにし町などの一部にあたる。町名の由来は泉が湧いていたことによる。もとは室蘭区大字札幌通さつぽろどおり・大字幕西町まくにしちようの一部の日本一にほんいち坂から幕西町入口までの地で、大正一一年四月に室蘭区泉町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。同年八月の市制施行により室蘭市泉町となる。

泉町
いずみまち

[現在地名]鹿児島市泉町など

つき町・いま町の南に位置し、南は堀江ほりえ(「鹿児島県地誌」など)しも町一二町の一。「列朝制度」に「泉町之義、元南泉院門前地ニて候処、下町へ被召付」とあり、もとは南泉なんせん院の門前町であったという。元禄期(一六八八―一七〇四)の埋立により成立したという。

泉町
いずみまち

[現在地名]松山市住吉二丁目付近

三津みつ町のほぼ中央部を東西に通ずる町筋。東端は堀河ほりかわ橋で、大工だいく町・船頭せんどう町に直角に交差する(文政六年八月写三津町絵図)

泉町
いずみちよう

昭和二七年(一九五二)に設定された。南西は南仲みなみなか町、北東はさくら町、東は清月せいげつ町。北西はJR石北せきほく本線北見駅構内で、市街地中心部大通おおどおり地区へと通じる。南東は屯田第一幹川用水路と南大通(南一線)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報