( 1 )平安時代、宮廷では花見は節日とされた。貴人の遊びとしても大いに広まり、「桜狩」とも呼ばれた。
( 2 )鎌倉以降は武家の間にも流行し、桜の名所がふえ花見も華やかになった。江戸時代に入ると花見は庶民にも広まる。文化・文政の頃より集団での花見が多くなり、花そのものより座興を楽しむようになる。
( 3 )古くは「常陸国風土記」に、春の花の季節に人々が飲食物を携えて筑波山に登ったとあり、そこに花見の原型がある。
桜の花を観賞するために野山に遊びに行く行事。酒や馳走を用意し,花を見ながら宴を催す。特定の庭園の桜のもとで行う例も多い。現代も盛んで,花の時期には桜の名所は花見客でにぎわう。露地に敷物を敷いて席を設け,飲み食いをし,歌い踊ってさわぐのは,江戸時代に,江戸,大坂,京都などの大都市を中心に発達した庶民の花見の風俗の継承である。元来,花見は個人の趣味ではなく,社会慣習になっていたところに意味がある。中国・近畿・関東地方では,旧暦3月3日か4日に,山に登って飲食をする行事を,花見と称した。栃木県の西部山地では3月3日から4月8日の間といい,東北地方では4月8日(卯月八日)が多い。桜の開花期に合わせたもので,花見が本来,宗教的な儀礼であったことをうかがわせている。《常陸国風土記》には,秋の紅葉の季節とともに,春の花の季節に,人々が飲食物をたずさえて筑波山に登り,歌垣(うたがき)をしたとある。これも花見の伝統につながる習俗であろう。花見は平安時代初期から宮廷貴族など貴人の遊びとしても知られ,鎌倉時代以後は武家の間でも流行した。豊臣秀吉の醍醐や吉野山の花見は華美をきわめ,数寄をこらした衣装で,歌舞などの芸事をつくし,江戸時代の庶民のはでな花見のさきがけをなした。宮廷では,花見は節日となり,〈花の宴〉と呼ばれた。《日本後紀》弘仁3年(812)2月12日の条に,神泉苑で花を見て,文人に詩を作らせたのが,〈花の宴〉の節の始まりであるとある。
→山遊び
執筆者:小島 瓔禮
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主として桜の花を観賞するため、野山に出て飲食し遊ぶ行事。日本列島は南北に長く、また起伏も著しいため開花時期が一定せず、旧暦の3月3日から4月8日ごろまでの間に行われる。もとは個人の趣味や風流の行事ではなく、農事の開始に先だつ物忌みのため、屋外に臨時のかまどを設けて飲食する行事であった。山遊び、磯(いそ)遊び、三月場(さんがつば)、ひいな飯、かまこ焼きなどともいう。たとえば、岩手県上閉伊(かみへい)郡のかまこ焼きは3月3日の行事で、子供たちが10人前後の組をつくり、川原にかまどを築いて煮炊きをして一日中遊ぶ。他の組のかまどを荒らす遊びもある。多くの地方で三月節供の料理に蛤(はまぐり)の吸い物を添えるのは、磯遊びで蛤をとって食べた名残(なごり)である。屋外での炊事が簡略化されると、家で料理したものを重箱に詰めて持って行くようになる。
古代・中世においては貴族・武家の間で行われたが、近世には大名も町人も、花見弁当や酒器を持って山野に繰り出した。都市近郊の社寺境内、広場、堤などには、人工的に桜を植えて「桜の名所」をつくりだし、江戸では品川御殿山(ごてんやま)、飛鳥(あすか)山、向島(むこうじま)、上野、浅草、小金井(こがねい)などが著名であった。その後も次々に名所ができ、行楽の花見は広がった。現代も花見の行楽は続いているが、一部には、会社などの団体で争って場所をとり、夜桜の下で宴会を開き、夜遅くまで騒ぐ人たちもいる。
[井之口章次]
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…見物左衛門と名のる男がシテだが他に登場人物はなく,終始シテ一人の独白と仕方で演じる,特異な独り狂言。筋立て・演出には,小書(こがき)ともいうべき《深草祭》と《花見》の二通りがあるが,上演に際しては小書を付ける場合も付けない場合もある。《深草祭》は,5月5日,京都深草にある藤森神社の祭に出かけて流鏑馬(やぶさめ)や相撲などを見物して興じる様子を見せる狂言。…
※「花見」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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