篠崎村(読み)しのざきむら

日本歴史地名大系 「篠崎村」の解説

篠崎村
しのざきむら

[現在地名]小倉北区篠崎一―五丁目・東篠崎ひがししのざき一―三丁目・木町きまち一―四丁目・金田かなだ一丁目・貴船町きふねまち白銀しらがね一―二丁目・吉野町よしのまち新高田しんたかだ一―二丁目・竪林町たてばやしまち弁天町べんてんちよう皿山町さらやままち高尾たかお一―二丁目・清水きよみず一―五丁目・泉台いずみだい一丁目・真鶴まなづる二丁目

小倉城下南西に位置する。むらさき川左岸が大半で、東は片野かたの村、西は長崎街道を挟んで到津いとうづ村と接する。元和八年人畜改帳に篠崎村とみえ、御蔵納分の高一千二九九石余と、清水きよみず寺大納言坊の知行分五〇石余の二筆で、家数一〇二、人数二六三(うち百姓二一・名子一七・坊主四・社人一・檜皮葺一)、牛二九・馬一三四。郷村高帳では高一千七五四石余、うち新田高四二九石余。幕末の各村覚書では上篠崎村(宮ノ尾周辺)として本高一千二〇五石余、田七九町九反余・畠四八町八反余、物成六〇七石余、竈数七二・人数二六五、下篠崎村(木町周辺)として本高六〇四石余、田三九町余・畠二三町一反余、物成三〇四石余、竈数三二・人数一一二、牛一九・馬二、八幡社・貴布禰きふね社、瑞松ずいしよう寺・清水寺・長玄ちようげん寺・万蔵まんぞう院・善龍ぜんりゆう寺など。


篠崎村
しのざきむら

[現在地名]大穂町篠崎

前野まえの村の南にあり、大曾根おおぞね村より吉沼よしぬま村に至る道筋に位置。天正一二年(一五八四)四月一八日の宇都宮国綱感状写(宇都宮氏家蔵文書)では下野国岩舟山麓での北条氏直との対戦において信田弥四郎なる者が功をたて、「居城篠崎近所ニ一所可感(ママ)状如件」と領地安堵を受けている。「寛文朱印留」には麻生藩新庄直時領としてみえているが、「各村旧高簿」によれば幕末には旗本川勝新太郎・江原桂介・山角徳次郎・大岡次右衛門の知行地がいずれも一五八・八八九五石であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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