日本歴史地名大系 「粕川村」の解説 粕川村かすかわむら 群馬県:勢多郡粕川村面積:二五・七六平方キロ赤城山の南麓、勢多郡のほぼ中央に位置し、東は新里(にいさと)村、西は宮城(みやぎ)村・大胡(おおご)町、南は佐波(さわ)郡赤堀(あかぼり)町・前橋市、北は富士見(ふじみ)村に囲まれ、村域は南北に細長い。赤城山の小沼(この)(富士見村)を源とする粕川が宮城村との境を流れ下り、やがて村の中央を南流する。村名はこの河川名に由来。河川名は月田(つきだ)にある近戸(ちかと)神社の神事に関係して発生したと考えられている。北端は赤城山の南面、標高一四八〇メートルの高地で、南麓のゆるい傾斜地に村が広がり、南部の低い所は標高一五九メートル。交通は前橋と桐生を結ぶ上毛電気鉄道が村の中央を東西に走り、これに平行して主要地方道前橋―大間々(おおまま)―桐生線が通る。 粕川村かすかわむら 群馬県:新田郡尾島町粕川村[現在地名]尾島町粕川北を石田(いしだ)川が南東へ流れ、西は出塚(いでづか)村、南は安養寺(あんようじ)村、北は木崎(きざき)村・下江田(しもえだ)村(現新田町)。「和名抄」東急本に載る新田郡滓野(かすの)郷を当村一帯に比定する説もあるが未詳。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑の郷々一九ヵ郷の一として「かすかハ」とみえ、義重の庶子らいわう(義季)の母に譲られている。新田本宗家滅亡後岩松家へ伝えられたらしく、応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)には「糟河村」がみえる。享徳の乱の最中の長禄二年(一四五八)、岩松持国が古河公方足利成氏方から関東管領上杉氏方へ参ずる際、安堵を要求した所領のうちに「糟川郷」がある(年月日未詳「岩松持国知行分并闕所注文写」同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by