戦国時代に全国各地に割拠した領域支配者。応仁(おうにん)の乱(1467~77)以後、室町幕府の全国統治の秩序と権威が崩れるとともに、幕府の権威によって地位を保っていた守護(しゅご)大名の領域支配も動揺し、在地で実力を蓄えてきた家臣が主家からその実権を奪う下剋上(げこくじょう)の動きが各地で強まり、1493年(明応2)の管領(かんれい)細川政元(まさもと)による将軍廃立事件をきっかけに、本格的な戦国時代に突入した。16世紀中ごろには、この動乱を実力で勝ち抜いたおもな戦国大名が出そろってくる。
[村田修三]
戦国大名の系譜としては、(1)守護大名自身が新しい動きに対応して、領国を再編成した駿河(するが)の今川、甲斐(かい)の武田、能登(のと)の畠山(はたけやま)、近江(おうみ)の六角(ろっかく)、周防(すおう)の大内、豊後(ぶんご)の大友、薩摩(さつま)の島津など、(2)守護代が主家にかわった越後(えちご)の長尾(上杉)、越前(えちぜん)の朝倉、備前の浦上(うらがみ)、阿波(あわ)の三好(みよし)、出雲(いずも)の尼子(あまご)など、(3)在地の国人(こくじん)層から台頭した三河の松平(徳川)、尾張(おわり)の織田、近江の浅井、備前の宇喜多(うきた)、安芸(あき)の毛利(もうり)、土佐の長宗我部(ちょうそがべ)などがあり、(4)さらに異色の出自として、他国から流れ着いて一代の間に大名となった相模(さがみ)の北条、美濃(みの)の斎藤の例がある。一般に戦国大名は、国人領主から成長した大名が典型例とされるが、守護大名出自の例が案外多いのは、大名権力のなかで守護権の占める比重が高いことを示している。
戦国大名の数は、その内容の評価によって大きく異なるが、判物(はんもつ)を発給して独自の法圏を確保しえた領域支配者を数え上げると、優に100を超える。室町幕府が大名とみなしたのは、「永禄(えいろく)6年諸役人附(しょやくにんつけ)」に「大名在国衆(ざいこくしゅう)」と記された52人がいちおうの目安になる。これらのうち分国や領国とよびうる広域の支配秩序を樹立した大名は、前にあげた諸氏を中心とした延べ30氏余で、以下こういう代表的な事例についておもな特徴をあげることにする。
[村田修三]
戦国大名を前代の守護大名と区別する大きな特徴は、「今川仮名目録(かなもくろく)」に「守護使不入と云事は、将軍家天下一同御下知(げち)を以、諸国守護職(しき)被仰付(おおせつけ)時之事也。守護使不入とありとて、可背御下知哉。只今はをしなべて、自分の以力量、国の法度(はっと)を申付、静謐(せいひつ)する事なれば、守護(戦国大名)の手、入間敷事(いるまじきこと)、かつてあるべからず。」とあるように、個別の領主の所領内に大名の支配を及ぼすことのできる超越的な領有権を確立したことである。その具体的な内容として、所領を知行(ちぎょう)として認定する権限を大名が独占し、その土地の高(たか)を把握するために検地を行い、高に見合った軍役を知行人に課し、知行人間の争いを裁く法廷とルールを確立し、決定の強制と抵抗の排除を行うための武力として直臣団をつくりあげ、以上の諸規定を公にした分国法を定める、といった事項をあげることができる。
知行地は本領を安堵(あんど)した場合と新恩地を宛行(あておこな)った場合とで規制の程度が異なるが、前者も軍役を勤めなければ没収できる給地に変え、検地による高把握の進展と相まって均質化し、知行替えを推し進め、家臣の土地との結び付きをなくしていくのである。しかし、家臣には大名との主従関係の由来によって、譜代(ふだい)、外様(とざま)、国衆(くにしゅう)など多様な身分があり、国衆のなかには前述のような大名の規制の及ばない独立的な所領を維持する者が多い。彼らの軍役は盟約的な関係に依存しているために、不安定で叛服(はんぷく)常なく、戦国動乱を長引かせる一因となった。したがって戦国大名の施策の実行面は割り引いて考えなければならないが、彼らは領国の主要部分においては、治水灌漑(かんがい)、鉱山開発、市(いち)や交通規制などの施策でかなりの成果をあげて、かつてない生産力の掌握に成功し、それが大規模な築城や鉄砲隊の編成などの軍備増強を可能にしたのである。そして検地と知行替えに加えて、家臣の大名城下への集住が強まり、兵農分離の条件が生まれてきたことも否定できない。それゆえ戦国大名を近世的な権力の先駆けとみる見方もあるが、他方、検地によっても直接生産者を把握するに至らないところから、中世権力の最後の段階であるとする見解も有力である。
[村田修三]
『藤木久志著『戦国社会史論』(1974・東京大学出版会)』▽『永原慶二著『日本の歴史14 戦国の動乱』(1975・小学館)』▽『永原慶二他編『戦国時代』(1978・吉川弘文館)』▽『有光友学編『戦国権力と地域社会』(1986・吉川弘文館)』▽『永原慶二監修『戦国大名論集』全18巻(1983~86・吉川弘文館)』
戦国時代の争乱のなかで各地にその覇権を確立した地方政権。戦国大名は各地域の政治・経済・社会などの諸条件に規定され,また過渡的権力として,その出現の時期・規模・性格などさまざまな形態をとるが,一定規模の領域(典型的には一国以上)の人民・領土に主権を確立した大名をさす。戦国大名の多くは室町幕府より守護職を与えられており,形式的には独自の領国支配を強めつつある守護大名との区別が困難であるが,守護大名の領国支配権の源が幕府公権の分掌にあるのに対し,戦国大名は自己の力によって独立的国家を実現している点にその本質的相違がある。戦国大名は16世紀初頭よりその姿を明確にしてくるが,その転換が明確で,今日戦国大名としてモデル化されているものは主として東国の後北条氏,今川氏,武田氏,伊達氏などである。その転換のひとつの指標として領国内の所領に対する安堵の形態があるが,それはある時点を起点にして,それ以前の将軍・守護などの公的権力の安堵の効力をたちきり,それに代わって戦国大名の安堵が最高の公的保証力をもつものとして確立されるというものであった。〈自分の力量をもって,大名が国の法度を制定して国が治まっている〉という意識が,戦国大名を戦国大名たらしめる最大の特徴であった。
戦国の争乱という厳しい軍事的緊張状況のなかで,自分の実力による領国支配という事実を前提に,多くの戦国大名は〈国家〉という支配理念にその領国支配の正当性を求めている。戦国大名はみずから国家の保全を目的とした権力であると位置づけ,国家から国民に対する支配権を付託されたという委託統治論が大名の公儀性を支える論理であった。大名は家臣に対して国家に対する忠誠を強制し,国民に対しては国家に対する義務である国役を強制するというかたちで,新しい秩序を形成することを志向した。そして大名権力の支配の正当性の主張の有力な武器として,国家の意志としての国法が重要な役割をになわされたのであり,多くの大名が法による支配を前面におしだし,基本法である分国法を制定したのである。
戦国大名の家臣団の中心は,一族・譜代であり,大名は彼らを家老・奉行人など支配機構の中心にすえるとともに,直轄軍たる馬廻などの軍事組織に編成した。そして,かつての地頭などの系譜をひく在地領主や豪族などで,大名が成長するなかで政治的軍事的に服属した家臣を外様・国衆と位置づけ,大名家の家中という擬制的な家のなかにとりこんでいった。国衆はなお独立的地位をたもち,戦闘にも自己の軍団をひきいて出陣したが,大名はこれらの家臣団の知行地の収益を貫高で統一的に把握し,それにみあった兵員・武具などを課する貫高制をしき,定量的軍役体系を完成させた。これら在地領主層の多くがすでに城下町に居を構えていたことは,朝倉氏の一乗谷,六角氏の観音寺城下などの遺構から知られ,この階層においてはすでに兵農分離が進展していたことがわかる。ところで,大名の軍事力増強の決め手は,これら領主階級の編成とともに,戦国の動乱をその基底でひきおこした新しい勢力である村落の指導者たる地主層を,いかに家臣として大量に組織化するかにかかっていた。大名はその地主取分たる加地子得分を給恩として与え,貫高制のなかにくりこみ,侍身分たる軍役衆として把握し,軍役を負担させ,寄親・寄子制などによって組織化していった。
このような軍役体系としての貫高制をささえ,戦国大名の新しい体制樹立の中核的な政策としてうちだされたのが検地であった。その検地はさまざまの方式があるが,指出(さしだし)検地が基本であって,その最大のねらいは地主得分の吸収ということにあった。検地の施行により,主人をもち軍役を負担していたものは,その地主得分を与えられて兵として把握され,その他の地主はその得分を原則的に否定され,百姓=農と位置づけられたのである。この区分は兵と農だけでなく商人・職人にも及び,彼らにもそれぞれの奉公にみあった特典が与えられ,国別に編成され組織化されていった。このように大名は,兵=軍役,百姓=百姓役,職人役,商人役という〈役〉を基準とした負担体系,およびそれに応じた身分の区分,身分体系を全国民的規模で形成しつつあったのであり,この統合と組織化の成果のうえにたって,城下町の建設,治水事業などの大規模な土木事業,鉱山の開発などの富国強兵策が実行されたのである。通常多くの戦国大名が天下統一をめざして戦ったとされるが,織田信長の上洛以前,信長のほかの大名にはそのような徴証は現実には確認できず,戦国大名は地域の国家による統合,一種の地域的国民国家の形成を志向した権力と位置づけられるのである。
執筆者:勝俣 鎮夫
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戦国期に,数郡から1国ないし数カ国の規模で領域支配を展開した地方政権の称。応仁・文明の乱後,中央政権の求心力の低下にともなって,列島各地に出現。守護大名や守護代が成長したもの,国人あるいは一介の浪人など出自はさまざまだが,いずれも領国に一元的支配をしいたことを特徴とする。恒常的な戦時体制を背景に領内への支配力を強め,貫高(かんだか)という算定基準をもとに領内の武士に軍役を課す貫高制,独自の法体系としての分国法など,種々の統治上の工夫を編みだし,藩を政治単位とする近世封建制への橋渡しをした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…しかし戦国時代に続く安土桃山時代の始期を信長の安土移転からとすれば76年説が浮上することにもなる。信長権力の歴史的性格について,伝統的な見解では,これを豊臣秀吉権力と一体的にとらえて戦国大名と区別する見方が強かったため,戦国時代の終期は68年とする説が有力であったが,近年では信長権力はなお諸他の戦国大名と異なるものではないとする説が有力なため,68年説よりも73年もしくは76年説が重視されているのである。 このように戦国時代の始期・終期については見解が分かれるが,いずれにせよこの時代はほぼ1世紀にわたる激動期であり,それはさらに前後の2時期に区分されよう。…
…戦国大名が領国支配のため制定した基本法。戦国家法ともいう。…
…親子関係に擬して結ばれた保護者・被保護者の関係。戦国大名の家臣団組織の中で,寄親は指南,奏者などとも呼ばれ,寄子は与力(寄騎),同心とも呼ばれた。邦訳《日葡辞書》では,寄親を〈ある主君の家中とか,その他の所とかにおいて,ある者が頼り,よりすがる相手の人〉,寄子を〈他人を頼り,その庇護のもとにある者。…
※「戦国大名」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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