粟沢村(読み)あわざわむら

日本歴史地名大系 「粟沢村」の解説

粟沢村
あわざわむら

[現在地名]茅野市玉川(たまがわ) 粟沢

小泉(こいずみ)山(一〇七〇メートル)の西麓に位置し、北は下古田(しもふつた)村、西は上(かみ)川を隔てて矢(や)ヶ崎(さき)村、東は神原(かみのはら)村に接する。粟沢の北部に広がる和田(わだ)遺跡では縄文前期から平安時代にまたがる集落跡が確認されている。

粟沢は嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「粟沢鎮守」とあるのを初見とする。諏訪上社物忌令には「七湛(たたえ)木」の一として、「サクラタヽイ木粟沢ニ有」とある。粟沢城(和田城ともいう)跡は、東方に小泉山を負い、北西に伸びる舌状台地に位置し、粟沢の平(たいら)からの比高は約四〇メートルで、北西には上川を隔てて鬼場(おにば)城跡と相対している。


粟沢村
あわざわむら

[現在地名]水上町粟沢

綱子(つなご)村の北東、利根川沿いに位置し、藤原(ふじわら)道(沼田街道)が通る。慶長四年(一五九九)閏三月、真田昌幸らから清水(しみず)峠越後側の清水(現新潟県南魚沼郡塩沢町)口留番所安部弥左衛門に宛てた書状(阿部文書)によると、「あハさハ」からの欠落人が清水に侵入した節は、当年中の諸役を免許する旨伝えかつ意見して帰村を勧めるよう依頼している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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