糟屋庄(読み)かすやのしよう

日本歴史地名大系 「糟屋庄」の解説

糟屋庄
かすやのしよう

現伊勢原市上粕屋かみかすや・下粕屋・高森たかもり小稲葉こいなば沼目ぬまめ、平塚市小鍋島こなべしま一帯に広がる。

久寿元年(一一五四)一二月に立券され(「安楽寿院領諸庄所済注文」県史一)、平治元年(一一五九)鳥羽とば離宮内に鳥羽上皇の創建した安楽寿あんらくじゆ院の荘園の一つとして改めて官使国使の不入が承認されている(同年九月二九日「太政官牒」同書)。承安年間(一一七一―七五)にはいったん荘園としての公認を取消されたが、その後復活したらしい。承久三年(一二二一)から元仁元年(一二二四)までの頃の本家は安楽寿院、領所(領家か預所か未詳)源雅清田地は一九八町一反三〇〇歩、畠地は五五町三反六〇歩、年貢は四丈白布二〇〇反であったが、これらの数字がいつのものか明らかでない(前出所済注文)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の永嘉門院(瑞子女王)使家知申状御領目録(県史二)の中にも安楽寿院領として当庄の名がみえる。荘園の寄進を行い、荘司となって現地を支配したのは有力な武士だった糟屋氏で、糟屋盛季は「糟屋庄司」と称した(糟屋系図別本)。盛季の曾孫糟屋有季は、建久七年(一一九六)四月一八日、盛季が「大住郡之辺」に建立していた極楽ごくらく寺を修復して鐘を寄付し、銘は京下りの幕府政所の公事奉行人であった文章生三善宣衡が作り、鋳師は広階忠次であった(「極楽寺鐘銘」県史一)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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