日本歴史地名大系 「糸田庄」の解説 糸田庄いとだのしよう 福岡県:田川郡糸田町糸田庄現在の糸田町域、泌(たぎり)川と中元寺(ちゆうがんじ)川に挟まれた低台地状平野に比定される中世の庄園。宇佐宮弥勒寺喜多(きた)院領。領家は奈良興福寺の別院龍華樹(りゆうげじゆ)院か。鎌倉時代末期の地頭は北条氏で、南北朝期に鹿王(ろくおう)院(現京都市右京区)に寄進されたと思われる。建久八年(一一九七)の豊前国図田帳写(到津文書/鎌倉遺文二)に宇佐宮弥勒寺領五〇〇町のうちに「糸田庄百五十町」がみえ、鎌倉初期とみられる弥勒寺喜多院所領注進状(石清水文書/大日本古文書四―二)では一三〇町とある。承久二年(一二二〇)一二月、弥勒寺および同寺領の支配権を掌握していた山城石清水(いわしみず)八幡宮寺別当紀祐清と考えられる人物から、女子の女々御前に当庄が譲与された(「検校譲状」同文書/鎌倉遺文四)。一方、文明二年(一四七〇)三月一〇日の代官職補任状(「大乗院寺社雑事記」同月一一日条)によれば、当庄は近隣の田原(たばら)庄(現川崎町)とともに、承保年中(一〇七四―七七)に白河上皇により奈良興福寺龍華樹院に寄進され、興福寺大乗院門跡が相承したというが、史実かは不明。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by