紀伊郡(読み)きいぐん

日本歴史地名大系 「紀伊郡」の解説

紀伊郡
きいぐん

和名抄」刊本郡部に「岐」と訓ず。岡田おかだ大里おおさと紀伊きい鳥羽とば石原いしはら拝志はいし深草ふかくさ石井いしい八郷よりなり(和名抄)、およそ京都盆地の南方部分にあたる。全域現京都市域。

「日本書紀」雄略天皇一七年三月戊寅条には山背国内村・俯見村に贄土師部を置いたという記事があり、この俯見村は伏見ふしみ(現伏見区)のこととされる。この記事の真偽については確認できないが、早くより本郡は文献上にみえている。伏見稲荷いなり大社(現伏見区)祭祀遺跡や弥生時代の深草ふかくさ遺跡(現伏見区)の存在は生活の開始の早かったことを思わせる。

郡名の初出は「日本書紀」欽明天皇即位前紀で、「山背国紀伊郡深草里」で秦大津父なる人物を得たという記事である。郡・里という表記が歴史的事実でないことはいうまでもないが、秦氏が六世紀頃に本郡域に住んでいたことは疑いない。「山城国風土記」逸文には宇治郡・紀伊郡の地を「許乃国」と称しており、「許」は「木」で、紀伊郡の名称も「木郡」であったらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報