桓武天皇によって建設された都城。大内裏は現向日市にあり、南方現
奈良時代末期の政治の行詰りは、称徳天皇の死によって転機を迎えた。道鏡が失脚し、代わって藤原氏式家を中心とする新官人層が台頭、称徳天皇によって皇統が絶えた天武天皇系に代わって、天智天皇系から光仁天皇・桓武天皇が即位し、人心を一新し律令体制を再建すべく遷都がなされた。その場所に乙訓郡地方が選ばれた理由は、延暦七年(七八八)の詔には「水陸有便、建都長岡」というが、それだけでは説明できない。この時期、新官人層と並んで渡来人系氏族の台頭も著しく、桓武天皇の母は百済系渡来人の子孫和乙継の女高野新笠で、
遷都は延暦元年閏正月に起こった氷上川継事件を機に決断され、乙訓郡の地に場所が決定されると、同三年五月一六日、小黒麻呂、種継、大宰府での築城や造東大寺長官など土木工事の経験豊富な佐伯今毛人、陸奥鎮守府将軍の経験者坂上苅田麻呂、陰陽助船田口ら八人に、遷都のため長岡村を調査させた。その報告に基づき、種継・今毛人ら一五人を造長岡宮使に任命、造営に着手した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
平安時代初期、山城(やましろ)国乙訓(おとくに)郡に置かれた都城。現在の京都府向日(むこう)市・長岡京市付近にあたる。桓武(かんむ)天皇は784年(延暦3)11月11日に平城京からこの地に遷都し、以来794年10月22日に平安京に遷(うつ)るまでここに都した。政治の中心である宮城は向日市に、経済の中心である東西市(とうざいいち)は長岡京市に、交通の中心であり都の玄関にあたる山崎津(やまざきのつ)は大山崎町に、淀津(よどのつ)は京都市にあった。南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられているが、他の意見もある(平安京は南北9.5条、平城京の左京は9条、右京は9.5条分あった)。長岡京が南北に長いのは、南東部の淀付近が低湿地であり、南西部が山であった関係であろう。北部の宮の一部も丘のため建物は建てられていなかった。
奈良が廃都になったのは、仏教勢力からの絶縁、人心一新が理由とされるが、人口が増えすぎ、物資の輸送に有利な水運の便を欠いたのが最大の原因であった。これに対し、長岡京の山崎津や淀津には、当時大洋や瀬戸内海を航行する船がそのまま遡航(そこう)してくることができた。また天皇の信任の厚い藤原種継(たねつぐ)の母や藤原小黒麻呂(こぐろまろ)の妻の実家は、山背(やましろ)(山城)の葛野(かどの)郡や乙訓郡に居住する裕福な渡来系氏族秦(はた)氏で、この一族が遷都については協力を申し出て、誘致に努力したらしい。しかし、785年には遷都の首唱者で造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる早良(さわら)親王の廃太子事件が起きた。この時代、大規模な蝦夷(えみし)征討事業も行われたが、その経済的負担も大きかった。ところが完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊(おんりょう)に悩まされた桓武天皇によって、わずか10年で平安京へ都を遷すこととなった。
[中山修一]
長岡京址(し)の発掘は、1954年(昭和29)末以来84年末現在で、調査回数はすでに400回を超え、年間2億円近い発掘調査費を使って何か所かにおいて発掘と整理が行われている。発掘が進むにしたがって、最初考えた北京極(きょうごく)の地より2本北に北京極大路(おおじ)が考えられるようになり、町割は平安京型よりは平城京型に近く、南北は三都のなかでいちばん長いが東西幅は平安京より狭いことが明らかになった。
長岡宮域にあたる向日神社付近は古墳も破壊されずそのままに残っているほかは、どこの発掘でも柱穴や礎石下の根石をみいだすことができる。なかには10年の間にすでに建て直されている所も何か所かみられ、ほぼ全域に工事は進められていたことがわかった。京域では東西南北の大路小路もほぼ完成し、民家も約1万棟は建っており、人口も5万人はある田園都市的な整頓(せいとん)された美しい街であったと推定されるようになった。
木簡の出土数も1000枚を超え、墨書土器とともに重要な資料を提供している。出土瓦(かわら)には、藤原京・平城京・難波(なにわ)京・保良(ほら)宮瓦と長岡京固有の瓦とがあり、瓦や礎石、柱などはその後そっくり平安京へ運ばれている。
[中山修一]
『高橋徹他著『長岡京発掘』(1968・日本放送出版協会)』▽『中山修一他著『長岡京内と外』(1978・乙訓書房)』▽『上田正昭編『向日市史』上下(1983、85・向日市)』
京都府南西部、京都盆地の西部に位置する市。西部は大阪府に接する。1949年(昭和24)乙訓(おとくに)郡新神足(しんこうたり)、海印寺(かいいんじ)、乙訓の3村が合併、町制施行して長岡町となり、1972年市制施行、長岡京市と改称。西部は標高200~400メートルの西山(にしやま)山地が占め、山麓(さんろく)には長岡丘陵とよばれる洪積層の台地が広がる。東部は桂(かつら)川と支流の小畑(おばた)川の沖積平野が開け、京都と大阪との回廊地帯にあたり、JR東海道本線、阪急電鉄京都線、国道171号などが通じるほか、東海道新幹線、名神高速道路も走る。
平安京遷都前の784年(延暦3)から10年間、長岡京が置かれたが、長岡宮跡(国史跡)は北の向日(むこう)市にある。市域には恵解山(いげのやま)古墳(国史跡)など古墳が多い。奥海印寺に市立埋蔵文化財センターがあり、埋蔵品の一部が公開されている。近郊野菜の栽培が盛んで、ことに長岡丘陵はタケノコの産地として知られるが、交通の便がよいため、近年は住宅地や工場の進出が著しく、市街化が進んでいる。名所としてはツツジの長岡天満宮、モミジの光明寺、ボタンの乙訓寺や、西山の山中には柳谷観音(やなぎだにかんのん)とよばれる楊谷寺(ようこくじ)がある。面積19.17平方キロメートル、人口8万0608(2020)。
[織田武雄]
『『長岡町二千年』(1970・長岡町)』▽『『長岡京市史』全7巻(1991~1997・長岡京市)』
784年(延暦3)から794年まで,山城国乙訓(おとくに)郡(現在の京都府向日(むこう)市,長岡京市,京都市,乙訓郡大山崎町)にあった古代の都城。
奈良時代末期の781年(天応1),父光仁天皇からはからずも帝位をゆずられた山部親王(桓武天皇)は,旧都平城京を捨てて新都を建設し,人心を一新して律令体制をたてなおそうとした。それは,平城京時代70年間に強大になった寺院勢力などの旧弊を断ち切り,新しい政治を行うことをめざすことでもあった。この新しい都づくりの土地として,大和から遠く離れた長岡京が選ばれたのは,人口が10万~20万人という大都市にふくれあがった平城京では,それだけの人口を支える物資を確保するための輸送が不便となり,水陸の便のよい土地が選ばれたためとする説,桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)の実家である土師(はじ)氏の居地であったためとする説,桓武天皇が深く信頼を寄せた寵臣藤原種継や藤原小黒麻呂の母方や妻の実家の秦氏の居地であったためとする説などの理由が考えられている。
長岡京は,山背国乙訓郡長岡村の地が選ばれたことから,長岡京と名づけられ,宮殿(長岡宮)の中心部分は向日市鶏冠井(かいで)町等にある。1955年以来発掘調査が行われ,長岡京の実態がしだいに明らかにされてきた。昭和30年代には,宮殿内の儀式を行う中心部分である大極殿をはじめとする朝堂院の一帯が明らかにされ,昭和40年代には天皇の住居にあたる内裏の一画が明らかにされてきた。昭和50年代以降は,長岡京全域への調査が進められ,長岡京の都市計画の街路(条坊)のようすも明らかにされた。その結果,長岡京は平安京へ移るまでの準備期間の仮の都としてつくられたものではなく,本格的な都づくりが行われ,主要部の造営はほとんど完成していたことが明らかとなった。さらに,朝堂院が縮小され,内裏と朝堂院が分離し,宮殿内の構造や都市としての町割りの構造などにいろいろ新しい要素が取り入れられ,新しい都づくりが意欲的に進められていたことも明らかになってきた。このため,長岡京が10年間で廃止され,平安京へ移されることになったのは,仮の都であったからではなく,突然やむをえない事情が起こったためと考えられる。その原因として,怨霊によるものとする説と洪水によるものとする説の二つがある。怨霊によるものとする説は,785年,長岡京の造営を中心的に進めた造営長官藤原種継が暗殺され,その容疑者として皇太子早良(さわら)親王が捕らえられ,無実を主張して憤死した事件以後,桓武天皇の周辺に不吉なことが相次いで起こり,その原因が早良親王の怨霊によるものと信じられたためであるとするものである。洪水によるものとする説は,長岡京が都としての立地が悪く,たび重なる洪水,とくに792年の長岡京左京部分が冠水した大洪水により,桓武天皇に長岡京を捨てる決心をさせたというものである。
執筆者:高橋 美久二
京都府南部の市。1972年乙訓(おとくに)郡長岡町が市制を施行,改称して長岡京市となる。人口7万9844(2010)。市名は隣接する向日(むこう)市など当地一帯に所在した古代の長岡京に由来する。京都盆地南西部に位置し,東部には桂川西岸の沖積平野がひろがり小畑川が南流,西には大阪府境の山地がつらなって段丘・丘陵をなす。平地部の神足(こうたり)にある雲ノ宮遺跡は弥生時代前期の集落遺跡で,京都盆地での水稲耕作はここから始まったとみられている。全長120mの恵解山(いげのやま)古墳(前方後円墳)など,古墳も多い。北部山麓の粟生(あお)には鎌倉時代に開かれた西山浄土宗総本山の光明寺がある。中央部には菅原道真をまつる長岡天満宮があり,ツツジの名所として知られる。小畑川の西岸にあった勝竜寺城は,応仁の乱の際,この地域における西軍の拠点であった。JR東海道本線,阪急京都線,国道171号線が南北に貫き,京都,大阪への交通の便がよいため,1960年前後から急激に宅地化が進んだ。東部の低地には電機,化学,製紙などの多くの工場ができた。段丘・丘陵上ではモウソウチクの栽培が盛んで,たけのこの産が多い。
執筆者:浮田 典良
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784年(延暦3)に桓武天皇によって造営された都城。794年の平安遷都まで,約10年にわたって存続した。山背(城)国乙訓(おとくに)郡,現在の京都府向日(むこう)市・長岡京市・大山崎町にまたがり,桂川右岸に立地。宮城や9条8坊(北辺を含む)で構成される京域が復原され,その規模は基本的に平安京に一致する。中央北端の宮城はとくに発掘が進んでおり,その結果,内裏(だいり)は当初朝堂院北方に位置し,のち東北方に移動して平安宮と同じ配置になったこと,平城宮と同じく大極殿閤門(こうもん)が存在したこと,朝堂は難波宮と同じく8堂で建物自体の構造も共通することなどが判明した。藤原・平城・難波の各宮から移送・再利用された瓦も多数出土している。存続期間は短いが,平城宮・後期難波宮から平安宮への過渡期にあるようすを端的に示している。宮跡の一部は国史跡。
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…条数は3条を減じて9条,坊数はやはり4坊であるが,左京の東に5条×3坊分の〈外京〉が付設された。長岡京は基本的には平城京の左京・右京各9条4坊を踏襲したらしいが,なお京域は未確認。平安京も左右京それぞれ9条4坊であるが,北に半条分の北辺がつく。…
…恭仁(くに)京も賀世山の西の道から東を左京,西を右京とし,宅地の班給も行われたが,都城の構造はまだ推定の域を出ていない。さらに長岡京と平安京は基本的には平城京を踏襲したもので,長岡京はなお不確定の部分があるが,外京はなく,北辺と同じように,左右京とも北に半条分拡大され,宮域も拡張された。なお藤原京,平城京,長岡京における条坊制街区の割付けは道路の中心から中心までの間で行われ,平安京では道路幅を除外し,一つの町は40丈(約120m)四方と画一化され,四行八門の制によって細分化した。…
※「長岡京」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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