紙屋庄(読み)かみやのしよう

日本歴史地名大系 「紙屋庄」の解説

紙屋庄
かみやのしよう

小千谷おぢや高梨たかなし町付近から現三島さんとう越路こしじ町の東半を含み、現長岡市深沢ふかさわ町・才津さいづ町辺りにかけての信濃川西岸に展開していた庄園。保元元年(一一五六)七月日の藤原忠通書状案(天理図書館蔵文書)によれば、死去した宣旨(忠通の乳母讃岐宣旨もしくはその孫か曾孫の法性寺殿宣旨)遺領播磨に与えた目録に「紙屋越後国」とみえる。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載せる関東知行国乃貢未済庄々注文に「殿下御領 預所播磨局紙屋庄」とあり、摂政近衛基通の家領であった。預所の播磨局は藤原家宣の母上西門院播磨(尊卑分脈)であろう。嘉元三年(一三〇五)頃および暦応五年(一三四二)の摂渡庄目録(九条家文書)には、ともに平等院領のなかに近衛殿御領として「紙屋庄 年貢米五十石」と記されており、おそらく関白忠通以前から摂関家領として宇治平等院に伝来されていたものと思われる。建武三年(一三三六)八月三〇日には近衛基通の孫静基が門跡初祖となった山城実相じつそう院に安堵されている(「光厳上皇院宣案」実相院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報